軽巡洋艦 防空巡洋艦

IJN Nagara Class CL Isuzu

五十鈴(いすず)は日本海軍の軽巡洋艦。長良型の2番艦である。
その艦名は、三重県を流れる五十鈴川より名づけられた。
五十鈴は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として、1923年(大正12年)に完成した。完成時には、高速軽巡洋艦として、水雷戦隊の旗艦に適した優秀な艦であり、歴代艦長からは堀悌吉、山本五十六、高須四郎、山口多聞など後に著名になった指揮官も輩出した。
太平洋戦争開戦時にはすでに旧式化しつつあったが、開戦劈頭の香港攻略戦に参加した。1942年4月10日、第2南遣艦隊第16戦隊に編入後は小スンダ列島攻略戦など小規模の作戦に従事する。しかし、ソロモン諸島方面でのアメリカ軍の反攻作戦が始まり、 五十鈴 も急遽ソロモン方面に進出。臨時に第2水雷戦隊の旗艦となり、南太平洋海戦と第三次ソロモン海戦に参加。後者では一時航行不能に陥る損害を蒙った。
損傷復旧以後は輸送や救援活動に従事。1943年12月5日、ルオットでアメリカ機動部隊の空襲を受け損傷し日本に帰還。その頃、対空砲火の増強策の一環として5500トン型軽巡の主砲をすべて八九式12.7cm高角砲に換装することになり(一部を換装した艦はすでにあった)、その第一弾として損傷復旧中の「五十鈴」の主砲をすべて高角砲に換装した。
戦局の悪化により 五十鈴 に続く艦は出現せず(似たような例としては敷設艦「常磐」(旧一等巡洋艦)があった)、結果的に 五十鈴 のみが5500トン型軽巡の中で異彩を放つこととなった。
この改装では、対空装備の他対潜装備も増備され、改装中に対潜掃討部隊の第31戦隊に当初予定されていた 名取 に代わって旗艦として編入された。五十鈴 が対潜掃討部隊に編入されたのは、名取より電探や対潜兵器が充実していたからであった。
1944年9月14日に改装を終えた 五十鈴 は対潜掃討に従事することなく、小沢治三郎中将指揮の第三艦隊の一員としてレイテ沖海戦に投入された。これは当時水雷戦隊が不足していたため、対潜掃討部隊とは言え半ば水雷戦隊のような第31戦隊を応急対策として対空戦隊として投入したものであった。この海戦において、敵13機(内4機は不確実)を撃墜したとされる。
レイテ沖海戦で生き残った 五十鈴 は11月に入り、フィリピン方面に回り輸送任務に従事するが、1944年11月19日、コレヒドール島沖で米潜水艦 ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃を艦尾に受け舵を流されるなど大破した。駆逐艦 桃 の護衛によりシンガポール、ついでスラバヤで修理を行う。
1945年4月1日に修理が成り、即座にティモール島をはじめとするスンダ列島所在の陸軍部隊を撤退させる「二号作戦」に投入された。4月4日、スラバヤを出撃しティモール島の港町・クーパンに入港し陸軍部隊を乗せた後、翌日に出港。4月6日、9機のB-24と39機のB-25の攻撃を受け、至近弾数発のほか艦首に爆弾1発が命中(不発)。しかし、回避運動を行いながら3機を撃墜、任務を続行しスンバワ島のビマに入港する。4月7日早朝、ビマを出港した 五十鈴 は米潜水艦 ガビラン (USS Gabilan, SS-252) から1本、チャー (USS Charr, SS-328) から3本の魚雷を受け8時46分頃に沈没した。結局、五十鈴 が対潜掃討に従事することはなかった。

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性能諸元:
分類:巡洋艦
クラス:二等巡洋艦
艦番:計画第7号中型(二等)巡洋艦
起工:1920年起工 竣工:1923年竣工
型式:長良型 艦番:2番艦
艦名:五十鈴 初代五十鈴
由来:地名 三重県を流れる五十鈴川に因む
諸元:基準排水量:5,170トン 満載排水量:トン 公試排水量:5,570トン
全長:162.15m 全幅:14.17m
兵装:

竣工時最終時
50口径三年式14cm単装砲×740口径89式12.7cm連装高角砲×3
40口径三年式8cm高角砲×2撤去
25mm三連装機銃×11
25mm単装機銃×5
92式4連装魚雷発射管×2
6.5mm単装機銃×2撤去
8年式連装魚雷発射管x4撤去
機雷x48
爆雷(九五式/二式/九三式)×90

搭載機:1機(近代化改装後) 防空巡洋艦改装後0機
信号符字 Juliet – Lima – Kilo – Alpha
J L K A

補足情報:
潜水艦に沈められた最後の軽巡用艦

同型船:
長良(ながら)長良川にちなむ。1922年竣工(佐世保工廠)1944年天草諸島の西にて戦没。
五十鈴(いすず)五十鈴川にちなむ。1923年竣工(浦賀船渠)1945年ビマ沖合にて戦没。
名取(なとり)名取川にちなむ。1922年竣工(三菱造船長崎)1944年サマール島東方にて戦没。
由良(ゆら)由良川にちなむ。1923年竣工(佐世保工廠)1942年海没処分。軽巡戦没第1号
鬼怒(きぬ)鬼怒川にちなむ。1922年竣工(神戸川崎造船所)1944年パナイ島北東で戦没
阿武隈(あぶくま)阿武隈川にちなむ。1924年竣工(浦賀船渠)1944年ネグロス島沖に戦没。

考証:
防空巡洋艦改装後の公試時の写真は舷外電路が撤去されていた。 (実艦写真)
中央高角砲座はブルワークは無く縁台のみであった。(ジョーワールド説明書)
機銃配置は、キットの説明によるAの状態であった、レイテ後B仕様になった可能性がある。(写真日本の軍艦・ジョーワールド説明書)
キットの魚雷発射管は3連装ですが、実際は4連装である。(写真日本の軍艦)
13号電探はレイテ後設置のため、レイテ時は未搭載である。(ジョーワールド説明書)
レイテ沖海戦時 (捷一号作戦) 10月25日朝の後檣写真によると、探照燈、22号電探、13号電探が確認出来ましたので、再現します。但し、キットの13号電探の取付指定位置には、確実に13号電探はありませんでした。実際は三脚の接点からわずかに下でした。また、探照橙座にはロープが横方向に配置されているのが確認出来ました。
後檣のエッチングに方形のものが用意されていますが、(防空巡洋艦改装後公試時写真では方形構造物は確かに確認できます。)レイテ沖海戦時は、ラットライン状のものと、舵柄信号標しか確認出来ませんので、実際の写真通りの再現とします。(実艦写真・日本の軍用船)

別仕様:
1945 最終時

使用部品:
フジミ製 軽巡洋艦 五十鈴
専用エッチングパーツ
各種金属線
ニッケルチタン線
各種レジンパーツ等使用

製品所在:
2012年1月23日 軍艦堂第六渠にて起工
2012年4月12日 軍艦堂にて竣工
2012年4月19日 東北地方在住のコレクター様所蔵

あとがき:
レイテもいよいよ佳境です。

編集 鴣囃子裕二@軍艦堂 トップへ

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