祥鳳(しょうほう/しゃうほう)は、日本海軍の航空母艦。元は剣埼型潜水母艦剣埼(つるぎざき)であった。同型艦に瑞鳳(高崎)がある。
ロンドン海軍軍縮条約により航空母艦の保有量を制限されていた日本海軍は、有事において短期間(軍令部希望1ヶ月 – 3ヶ月間)で航空母艦(空母)に改造できる艦船を建造することで、条約の制限を乗り切ろうとした。そのような意図で建造されたのが空母3隻(祥鳳、瑞鳳、龍鳳)の前身たる潜水母艦3隻(剣埼、高崎、大鯨)である。最初から潜水母艦だった「大鯨」に対し、後発2隻(剣埼、高崎)は高速給油艦として設計されたが建造中に潜水母艦へ変更された。本艦は1939年(昭和14年)1月15日横須賀海軍工廠で竣工。潜水母艦として活動したのち、1940年(昭和15年)11月から計画通りに航空母艦へ改造されたが、不調のディーゼル機関をタービンと交換したため工事に約1年掛かってしまった。空母化と共に剣埼は『祥鳳』、高崎は『瑞鳳』、大鯨は『龍鳳』と改名されている。
「祥鳳」は1942年(昭和17年)5月7日の珊瑚海海戦で撃沈され、太平洋戦争において戦闘で最初に失われた日本海軍の空母となった。
1940年(昭和15年)11月15日、「剣埼」は横須賀鎮守府第四予備艦となり航空母艦への改造工事に着手。横須賀工廠では、すでに翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴」の建造がはじまり、進水も前年6月1日にすませていた。未完成のまま放置されていたため先行して航空母艦へ改造中の「高崎」は、同年12月15日附で空母瑞鳳と改名され、12月27日に竣工したがその際に『瑞鳳:1938年(昭和13年)1月15日起工、1939年(昭和14年)3月1日進水』という架空の起工・進水日を登録した。また本艦の場合も『1939年(昭和14年)1月10日起工、1940年(昭和15年)2月23日進水』という架空の起工日と進水日を設定した。このため本当の起工順は(1番艦:大鯨 – 2番艦:剣埼 – 3番艦:高崎)だが、瑞鳳型航空母艦としての関係は(1番艦:瑞鳳《高崎》 – 2番艦:祥鳳《剣埼》 – 3番艦:龍鳳《大鯨》)となった。
本艦(祥鳳)の空母改装は1940年(昭和15年)11月15日から横須賀海軍工廠ではじまった。不調のディーゼルエンジンを陽炎型駆逐艦の艦本式ボイラーと艦本式タービンに換装、このため前述のように改造に1年かかった。
1941年(昭和16年)12月20日、ほぼ改装が終わった剣埼(祥鳳)と交替で、横須賀で「大鯨」の空母改造がはじまり、それにともない同艦が予備艦となった。 12月22日、改造完成により、本艦は剣埼から祥鳳へと改名された。同日附で航空母艦に類別。横須賀鎮守府籍。伊沢剣埼艦長以下、剣埼乗組員は祥鳳乗組員となった。また、艦艇類別等級別表の潜水母艦欄から剣埼型が削除された。
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発、「祥鳳」は12月22日の完成・命名(前述)と共に連合艦隊・第一航空艦隊・第四航空戦隊(司令官角田覚治)に編入された。四航戦から連合艦隊附属に転出した春日丸級特設空母1番艦春日丸(大鷹)の代艦であった。四航戦司令官角田少将は空母「龍驤」を旗艦として南方作戦・蘭印作戦に従事しており、竣工したばかりの本艦は内地で訓練に従事した。なお「祥鳳」への改名に際し空母「鳳翔」または空母「鳳翔」とする誤記が多発、郵便物の誤配に悩まされた。
航空母艦としての最初の任務は、ニューブリテン島ラバウルへの零式艦上戦闘機(以下『零戦』)輸送任務であった。珊瑚海海戦では90機を越えるアメリカ軍機の爆撃雷撃同時攻撃、TBD艦上攻撃機デヴァステイターより魚雷が投下され7本が命中、SBD急降下爆撃機ドーントレスより投下された爆弾13発が命中。他に艦攻1機が魚雷を抱いたまま「祥鳳」左舷に自爆(特攻)したとされる。上空で戦闘を目撃したアメリカ軍の戦闘機パイロットが悲惨な光景に動揺するほどの徹底的な攻撃が小型空母である「祥鳳」に叩き込まれた。
過剰ともいえる爆弾と魚雷が命中して大火災となった為、乗組員は手の施し様がなくなった。総員退艦が発令されるが、相当数の乗組員が配置についたまま祥鳳と共に沈んだ。退去命令より間もなく、艦首から沈没、アメリカが沈めた史上初の空母(日本が喪失した最初の空母)となった。
MO攻略部隊主隊はアメリカ軍機の再空襲を避けるため、祥鳳生存者の救助を中止して北上した。各艦は丸太、木片、救助用具、空樽などを投下すると、夕刻救助に戻る旨を祥鳳漂流者に手旗信号で伝え、沈没現場を離れた。五藤司令官は「漣」を祥鳳沈没現場に向かわせる。3時間後に到着して救助を開始。祥鳳全乗組員836名のうち、准士官以上3名・下士官兵約600名の計631名が戦死、生存者205名(負傷者72名)と記録されている。乗員839名中生存者は203名とも。伊沢石之助大佐(祥鳳艦長)も生還した。
さらに18時55分、第六水雷戦隊旗艦(司令官梶岡定道少将)の軽巡「夕張」は溺者の声を聞いて第30駆逐隊(睦月、弥生、望月)と共に救助活動を行う。駆逐艦「弥生」は祥鳳乗員2名を救助。つづいて母艦を見失った漣内火艇を発見し、同艦に帰艦させた。 その後、祥鳳生存者は給油艦「石廊」に移動後、トラック泊地で内地送還を待った。その際に伊沢(祥鳳艦長)が「加古」の高橋艦長を訪問してる。
なお、5月7日のMO機動部隊(翔鶴、瑞鶴)の攻撃は、索敵機が給油艦ネオショーを空母と誤認報告してこれに集中攻撃を行い、肝腎のアメリカ軍機動部隊には手を出さなかった。第六戦隊偵察機からの報告でヨークタウン、レキシントンに薄暮攻撃を敢行するも、アメリカ軍戦闘機に迎撃されて戦果なく大損害を受けた。結果的に見て、祥鳳の喪失(アメリカ軍攻撃隊の祥鳳への集中攻撃)は第六戦隊や攻略部隊輸送船団を間接的に守ったことになり、これはアメリカ側も「この種の海戦ははじめてなので仕方が無いが、空母を過剰に叩きすぎて巡洋艦や輸送船団を見逃してしまった」と認めている。一方で、機動部隊同士の戦闘においてはMO機動部隊(翔鶴、瑞鶴)がチャンスを生かせなかったことで無駄になったといえる。深夜になり第六戦隊は二分割され、第1小隊(青葉、加古)は第六水雷戦隊等と共に輸送船団護衛を続行、第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊(第五戦隊《妙高、羽黒》、第五航空戦隊《瑞鶴、翔鶴》、第7駆逐隊《潮、曙》、第27駆逐隊《時雨、白露、夕暮》)と合流して5月8日の戦闘に臨んだ。また、祥鳳沈没により南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官はポートモレスビー攻略船団に対し退避を命令した。海からポートモレスビーを攻略する日本軍の企図は頓挫し、オーストラリアは日本軍の脅威から解放された。
真珠湾空襲以降、日本軍の攻勢に押されていた連合国軍にとって、「祥鳳」の撃沈は日本海軍主力艦艇の初の撃沈であった。その戦果は戦意高揚のため大いに宣伝されたが、実際には大破だった「翔鶴」も撃沈したと錯覚していた。対する日本軍は国民の動揺を抑えるため大本営発表で『我方損害、給油艦を改造せる空母1隻』と発表している。また第四艦隊(司令長官井上成美中将)が受けた衝撃も相当なものだったという。戦史叢書では『兵力不足に加えて、広正面の作戦を担当していた南洋部隊としては、軽空母とはいえ、種々交渉の末ようやく与えられた、虎の子の空母であったからであろう。』と結んでいる。上記のように日本軍のポートモレスビー海上攻略構想は本海戦をもって頓挫し、珊瑚海海戦はアメリカ軍の戦略的勝利で終わった。
5月20日、「祥鳳」は航空母艦から削除された、また水上機母艦「瑞穂」と同日附で軍艦籍から除籍された。
Wikiより GFDL上の著作権表示
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性能諸元:
分類:航空母艦
クラス:軽空母,改造空母
艦番:-
起工:1934年起工(剣埼として) 竣工:1941年竣工
型式:瑞鳳型 艦番:2番艦
艦名:祥鳳 初代祥鳳
由来:生物 架空の生物(鳥類)鳳に因む
諸元:基準排水量:11,200トン 満載排水量:14,053トン 公試排水量:13,100トン
全長:205.5m 全幅:20m
兵装:
竣工時 | 最終時 |
12.7cm40口径連装高角砲×4 | 12.7cm40口径連装高角砲×4 |
25mm三連装機銃×4 | 25mm三連装機銃×4 |
搭載機:計画30機(零式艦上戦闘機18機(+補用3機)、九七式艦上攻撃機9機)
1942年1月30日27機(九六式艦上戦闘機6機+九七式艦上攻撃機12機+零式艦上戦闘機9機)
定数28機(九六式艦上攻撃機常用12機(補用4機)+九七式艦上攻撃機常用9機(補用3機))
1942年4月23日20機(零式艦上戦闘機10機+九六式艦上戦闘機+4機+九六式艦上攻撃機6機)
1942年5月7日23機(零式艦上戦闘機7機+九六式艦上戦闘機5機+九七式艦上攻撃機10機)
信号符字 Juliet – Queen – Juliet – Alpha
補足情報:
戦時中は瑞鳳、龍鳳、千歳、千代田の4艦を瑞鳳型航空母艦として分類していた
同型船:
瑞鳳(ずいほう)1940年竣工(高崎)(呉海軍工廠)1944年レイテ沖海戦にて空襲により戦没。
考証:
別仕様:
使用部品:
ハセガワ製 航空母艦 祥鳳
フライホーク製 祥鳳用甲板エッチングセット
各社 穴あき三角桁
ファインモールド製 25mm三連装機銃 シールドタイプ
アドラーズネスト製 ボラード各種 (重巡洋艦用)
各社 舷外電路
各社 手すり
その他各社レジンパーツ、エッチングパーツ、金属パーツ多数使用
製品所在:
2015年12月25日 軍艦堂にて起工
2016年-月-日 軍艦堂にて竣工
2016年-月-日
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あとがき:
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編集 鴣囃子裕二@軍艦堂 トップへ
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