局地戦闘機

IJN Kyushu J7W2 Shindenkai

KIT : 1/48 HASEGAWA KYUSHU J7W2 SHINDENKAI 09846

震電改
震電(しんでん)は第二次世界大戦末期に日本海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つ、最高速度400ノット(約740km/h)以上の高速戦闘機の計画で、1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号はJ7W1。
1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬大尉は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想し、研究を行っていた。
1944年(昭和19年)5月、B-29の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった。1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。指導により大量生産を考慮した改造図面の作成に着手。 1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。(量産機では主脚の接地位置をうしろにずらし、垂直尾翼の下に車輪は付けない予定であった) 1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。

Wikiより GFDL上の著作権表示
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.

SPECIFICATIONS : AS J7W1
ROLE : INTERCEPTER
CODE : J7W2
NAME : SHINDENKAI
FIRST FLIGHT : 1945 (J7W1 PROP. TYPE)
MANUFACTURER : KYUSHU
LENGTH : 9.76m WINGSPAN : 11.11m HEIGHT : 3.92m EMPTY WEIGHT : -kg
ARMAMENT :

NOSE4×30mm Cannon
INSIDE WING
BEHIND
SIDE
BODY
UNDER WING

CREW : 1
ENGINE : Mitsubishi Ha 43 Type43 18-cyrinder air-cooled engine 2,030hp
MAX SPEED : 750km/h
FERRY RANGE : -km
SERVICE CEILING :12,000m

補足情報:
上記諸元は震電としての諸元でジェットバージョンのものではありません。

派生型:
震電改
震電には「震電改」(略符号J7W2)として将来ジェット化する構想があったという説がある。この震電のジェット化構想説の根拠は、元九州飛行機設計部第1設計課副課長清原邦武の航空雑誌への寄稿である。
清原は寄稿で「1944年6月5日、空技廠で開かれた『試製「震電」計画要求書研究会』上かその後の指示で、空技廠発動機部員より「ガスタービンの使用を考慮して設計を進めよ。」というのがあった。震電に取付けるのは地上静止推力900kg、ほぼ3,000HP相当のもので速度は420kt(780km/h)程度になるだろう。ただし離陸補助ロケットが必要だが、これは過荷重としたいということだった。石川島芝浦タービンで試作中のネ-130ジェットエンジンだったようだ。いよいよトモエ戦時代も終るなと思った。「震電」の発動機配置からすれば、ジェットエンジンに換装することはそれほど難しくないように思われた。ぜひ早く実現したいものだと興奮を感じたことを覚えている。結局、これは実現しなかったが、中島飛行機で設計された双発ジェット攻撃機「橘花」は九州飛行機でも試作し、1号機がほとんど完成したときに終戦となった。」と証言している。
しかし、その他には震電についてはジェット化を考慮して設計された具体的な記録が見つかっていない。また、震電の動力艤装班主任を務めた西村三男もジェット化の話があったことは認めているが、実現に向けては「具体的には何ら進んでいなかった」とも証言している。搭載予定であった当時試作中のジェットエンジン、ネ130の開発の進行状況も終戦近くにようやく全力試験にとりかかった段階であり、実際に運用できる状況でなかった。
原因として、その前身であるネ20は様々な致命的欠陥を抱えており、この欠陥の結果設計時全力運転でわずか15時間と非常に耐久寿命が短い状態であったが、当時震電と並行して開発されていた橘花の試験飛行時でもこの欠陥が露呈しており、解決には向かっていなかったという。この欠陥はネ20のみでなく開発中のネ130にも起こっており、もちろん震電に搭載できる状況では無かった。 更に言えば、戦争末期の日本には最早ジェットエンジンに必要不可欠な耐熱金属を作るための希少金属(ニッケル、クロムなど)がほぼ枯渇しており、よく言われる排気タービンもこの資源不足による耐熱性の高い代替金属の開発が一つの大きな壁となっていた。従って、仮に試作エンジンが完成したとしても量産はほぼ不可能であったと考えられる。

考証:

使用部品:
1/48 ハセガワ製 九州 J7W2 局地戦闘機 震電改 ‘ジェットバージョン’ 09846
代替品 1/48 ハセガワ製 九州 J7W2-S 局地戦闘機 震電改 ‘夜間戦闘機’ 07367
代替品 プロペラバージョン 1/48 ハセガワ製 九州 J7W1 局地戦闘機 震電 JT22
ニッケルチタン線ストレッチ線
真鍮線0.2mm, 0.3mm, 0.5mm
銅線
その他汎用エッチングパーツ

特色:

製作年月:
2020年6月 製作

編集 鴣囃子裕二@軍艦堂 トップへ

第302海軍航空隊 所属機 1947年

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください