木曾(きそ)は、大日本帝国海軍の球磨型軽巡洋艦の5番艦。艦名は東海地方を流れる木曽川に由来して命名された。
1921年、長崎で竣工。竣工後はシベリア撤兵や日中戦争に参加していたが、太平洋戦争開戦後は第5艦隊所属として北方作戦に従事することとなり、1942年のミッドウェー作戦に伴うアッツ島・キスカ島攻略作戦や翌年のキスカ島撤退作戦へ参加する。その後は主として輸送任務に就いた。
竣工時に艦橋下に格納庫と艦橋前に滑走台を設置、陸上機を収容できるようにした。そのため他の球磨型より艦橋構造物が大型化した。以降の長良型、川内型も同様の理由で艦橋構造物が大型化している。しかし滑走台の実用性は乏しく後に撤去、以降陸上機は搭載されなくなった。
他の5500トン型軽巡洋艦は近代化改装時にカタパルトを設置、水上機を1機搭載したが木曾は大井、北上と共にカタパルトを設置せず、水上機は搭載されなかった。
木曾は1,2番煙突上部にそろばん型の雨水除去装置を設置、このため他艦と容易に識別できる。なお他の5500トン型では球磨がそろばん型のものを煙突3本全てに設置、他の艦との識別点になっている。
1939年4月17日、米重巡洋艦アストリアが日本の駐米大使斎藤博の遺骨を載せて横須賀に到着した際21発の礼砲を発射した。
1941年(昭和16年)11月10日、木曾は第五艦隊の第21戦隊に編入された。真珠湾攻撃時は千島列島で活動しており、荒天による損傷のため同年末には横須賀に戻った。
1943年(昭和18年)7月、キスカ島撤退作戦に参加する。その後内地や南方方面の陸軍部隊輸送任務等に従事した。
1944年8月30日、練習警備艦となり、訓練に関しては横須賀海軍砲術学校の指揮下に入る。
1944年11月13日、マニラ湾に停泊中に米空母機動部隊艦載機の攻撃を受け、木曾は大破着底した。
12月10日、木曾は予備艦に指定された。
1945年(昭和20年)3月20日、舞鶴鎮守府籍・軍艦木曾は軍艦籍より除かれた。
1955年から1956年にかけて曙とともに現地にて浮揚解体された。艦齢35年は日本海軍の軽巡洋艦として最長を誇る。
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性能諸元:
分類:軽巡洋艦
クラス:ニ等巡洋艦
艦番:-
起工:1919年起工 竣工:1921年竣工
型式:球磨型 艦番:5番艦
艦名:木曾 初代木曾
由来:地名 東海地方の河川名に因む
諸元:基準排水量:5,100トン 常備排水量:5,500トン 公試排水量:-トン
全長:162.15m 全幅:14.17m
兵装:
竣工時 | 模型再現時(1932年) |
50口径14cm単装砲x7 | 50口径14cm単装砲x7 |
40口径8cm高角砲x2 | 40口径8cm高角砲x2 |
三年式機砲×2 | 撤去 |
53cm連装魚雷発射管x4 | 53cm連装魚雷発射管x4 |
五号機雷×150 | 五号機雷×150 |
搭載機:なし
信号符字 JLIA
補足情報:
–
同型艦:
球磨 (くま) 1920年竣工 (佐世保工廠) 1944年マラッカ海峡にて雷撃により戦没。
多摩(たま)1921年竣工(三菱造船長崎)1944年レイテ沖海戦 (エンガノ)にて戦没。
北上(きたがみ)1921年竣工(佐世保工廠)残存。復員支援後1946年三菱造船長崎にて解体。
大井(おおい)1921年竣工(川崎造船神戸)1944年マニラ沖にて雷撃により戦没。
木曽(きそ)1938年竣工(三菱造船長崎)1944年マニラ湾にて空襲により沈没。1955年浮揚解体
考証:
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別仕様:
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使用部品:
タミヤ製 木曾 31318
レインボーモデル製 木曾用エッチングパーツセット
レインボーモデル、海魂、ジェニュインモデル、フライホークなどパーツ使用
各種金属、プラスチック素材部品
製品所在:
2015年12月6日 軍艦堂にて起工
2015年12月31日 軍艦堂にて竣工
2015年-月-日
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あとがき:
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編集 鴣囃子裕二@軍艦堂 トップへ
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