概観諸元

分類:駆逐艦 クラス:1等駆逐艦
起工:1941(昭和16)年起工 竣工:1942(昭和27)年竣工
型式:秋月型 艦番:3番艦
艦名:涼月 初代涼月
諸元:基準排水量:2,701トン 公試排水量:3,470トン
全長:134.2m 全幅:11.6m

概要

涼月(すずつき)あるいは凉月は、日本海軍の駆逐艦。秋月型駆逐艦の3番艦である。艦名は「さわやかに澄みきった秋の月」を指す言葉であろうと言われる。
(昭和14年)度第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)による乙型一等駆逐艦の第106号艦。1942年(昭和17年)12月29日に三菱重工業長崎造船所で竣工。竣工後は第61駆逐隊に編入され艦隊護衛、船団護衛、輸送任務に従事した。1944年(昭和19年)に2度被雷。そのためマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦には参加できなかった。 1945年(昭和20年)の坊ノ岬沖海戦には「大和」の護衛として参加。艦尾付近の至近弾により舵損傷、艦橋前に250kgと推定される爆弾1発を受け大破、火災発生し、海図も全て焼失。通信装置を失い、ジャイロ・コンパスも破損した。この時点で第一罐室が浸水放棄されたが機関部人員に被害はなく、第二罐室による20ノットが発揮可能だった。さらに操艦不能になった「大和」と衝突しかけたが、涼月が後進することで衝突は回避された。 艦長は「涼月」が既に戦闘不能と判断し、単艦で帰投開始。通信装置は破損しており、作戦中止命令は受信できなかった。本艦は被弾により艦首が沈下しており、前進すると船体が潜ってしまう状態だった。そこで機関長は「後進強速黒二〇(後進強速の回転数に20回転プラス)」の紙を機械室や罐室にはりつけた。涼月は9ノットを安定して発揮。海図もコンパスも失っていながらも、日本本土へ向かった。火災が一晩中鎮火しなかった為、米潜水艦に発見されることを誰もが恐れていたという。 こうして涼月は4月8日夕刻、漁船に案内されながら佐世保に帰着した。帰着が遅く、すでに沈没してしまったと思われていたが、突然の帰還に佐世保工廠はサイレンを鳴らして歓迎した。大急ぎでタグボートを手配され、なんとかドックに収容することができたが、艦首を大破浸水し満身創痍となっていた涼月はドックの排水を待ちきれずドック内で着座してしまった。完全復旧は断念され応急修理を施した上で佐世保相の浦に係留、陸上より電気を引き第3砲塔を使って防空砲台となった。佐世保が空襲された際にP51を1機撃墜している。戦後は損傷のため復員輸送に使用されず1948年(昭和23年)に解体。船体は「冬月」「柳」とともに北九州市若松港の防波堤としてそのまま活用され、地元では軍艦防波堤と呼ばれた。 本艦は3度の被害にあったがいずれも生還し秋月型駆逐艦の中で1番の長命であった。 坊ノ岬沖海戦から帰還した際に、船体前部のある部屋が内側から完全密閉処置され、なかで3名の水兵が酸欠死しているのが発見された。この空間の浮力が失われていたら、日本まで帰ることは出来なかっただろうと、艦長が遺体に頭を垂れたという話が残っている。

Wikiより抜粋

同型艦:

使用部品

製作工程

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完成写真

HULL SCAPE

ZOOM UP

 



撮影環境
ミニクリプトン球(電球色)4燈直射による自作撮影ブース
撮影に使用したカメラなどの機材
Nikon D40X, Nikon AF-S NIKKOR 24-85mm, Nikon AF-S NIKKOR 18-55mm, Kenko CLOSE-UP Lens f330 52mm, SLIK三脚
撮影時のカメラの設定値
F-18, NOFLASH, ISO100-1400, 露出補正+1.7

製品所在

2隻同時製作
艦番1: 
艦番2: 

展示箇所はこちら

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あとがき

 

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