
概観諸元
分類:航空母艦 クラス:改装空母
艦番:八八艦隊3番艦
起工:1920(大正9)年起工 竣工:1928(昭和3)年竣工
型式:加賀型 艦番:1番艦 (戦艦として2番艦の土佐は未成のまま標的艦となる)
艦名:加賀 初代加賀
由来:国名 石川県の旧令制国名加賀国
諸元:基準排水量:26,900トン 公試排水量:-トン
全長:238.5m 全幅:29.6m
竣工時兵装:50口径20センチ連装砲×2
50口径20センチ単装砲×6 45口径12センチ連装高角砲×6
最終時兵装:50口径20センチ単装砲×10 12.7センチ連装高角砲×8 25mm連装機銃×11
搭載機:1941年時 零式艦上戦闘機18機 九七式艦上攻撃機27機 九九式艦上爆撃機27機 補用18機
信号符字
概要
加賀(かが)は、旧日本海軍の航空母艦。加賀型未完成戦艦を改装した大型空母であり、大東亜戦争前半においては日本海軍の主力として活躍したが、1942年、ミッドウェー海戦にて沈没した。
艦名は石川県の旧令制国名加賀国にちなんで命名された。空母であるにもかかわらず艦名が旧令制国名より命名されているのは、後述の艦種変更に起因する。
日本海軍が計画した八八艦隊三番艦、四番艦として加賀型戦艦の二隻が起工された。その三番艦が本艦、四番艦が「土佐」である。「加賀」の起工は1920年7月19日。
先に建造された長門型戦艦を上回る性能に設計され、工事が進んでいたが、ワシントン海軍軍縮条約に従い1921年2月5日に建造中止の通達があり、やがて廃棄処分の決定がなされた。「加賀」は解体され、条約によって巡洋戦艦から航空母艦に改造される予定だった天城型巡洋戦艦「天城」と「赤城」の材料となる運命にあった。
ところが1923年(大正12年)9月に発生した関東地震(関東大震災)で「天城」は損傷を受けて破棄されるに及び、代艦として本艦が改造されることとなった。計画では、全長715呎、最大幅110呎、基準喫水幅101呎3寸、喫水21呎9寸、排水量26,950頓、20cm砲10門、12cm砲6門、12cm高角砲12門、搭載機36、満載状態27.6ノットという規模の空母となる予定だった。なお、加賀型戦艦の2番艦として建造途中にあった「土佐」は建造中止の後、射撃訓練の標的となり沈没した。
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦の制限下、補助的艦種としての航空母艦の運用が研究し始められた。そんな中で行なわれた改造ではあるが、当時日本海軍には空母の建造経験は小型空母の「鳳翔」しかなく、戦艦からの改装も日本海軍初であり、新造時備えていた三層の甲板や対水上艦用の20cm砲等が航空艤装の妨げになり後に改装・撤去されるなど模索の中で進められることとなった。
竣工時
艦形の決定の際、同じく他艦種から改造されたイギリス海軍の二段式航空母艦「フューリアス」の影響を受けてか、「赤城」共々、三層の飛行甲板を持つ三段式空母案が採用された。上段を離発着用、中段を小型機の発艦用、下段を大型機の発艦用とし、航空機の機種・用途に合わせ、甲板を使い分けることが考えられたのである。
しかし航空機の草創期に設計されたため、運用の実際や航空機の大型化を予測しきれず数々の問題が浮上することとなった。問題となったのは発着用飛行甲板の短さであり、特に中段の甲板で顕著に表れ、ここから艦載機が運用上で発艦することはできなかった。飛行甲板と船体に挟まれた艦橋からは搭載機の発艦・着艦統制が難しく、1932年(昭和7年)には甲板のエレベーター右舷に塔型補助艦橋と、飛行科指揮所を設けている。
また煙突の配置も問題となった。当時保有していた空母は「鳳翔」しかなく舷側に煙突を立てたままだと航空機の着艦操作に大きな影響を与えることは実証されている。霞ヶ浦の技術研究所で模型を作ってさまざまな空洞実験を行ったがどうしても解決策を見出すことができなかった。そこで当時参考資料として検討されたのが英空母「アーガス」である。これは煙路を両舷に沿って艦尾まで導き排煙するという方式をとっていた。当時の造船技術者達は「赤城」の方式と実用性の上で比較するためにこの艦尾排煙方式を強く主張し、「加賀」の煙突は「赤城」とは別個のものとして作られることになった。しかし実際には様々な問題が出てきた。ボイラーからの排煙が航空機の邪魔にならないようにと煙路を艦尾まで導いて排煙していたが、長大な煙路の重量、艦内容積の減少。さらには煙路に隣接する区画の室内温度は40℃にも達したといい高温により居住に耐えられないという大きな問題であった。また艦尾から排出される煤煙が気流を乱して航空機の着艦を阻害することにもなった。この問題は「赤城」と同様の煙突方式を取ることで解決を試みようとされたが、折からの軍縮予算で実現されなかった。
なお、この時期の航空機搭載機数は60機である。
20cm砲10門を装備。これは近接する水雷部隊からの防御のためであり、艦隊決戦では重巡洋艦並の火力である。そのうち、連装砲二基四門は竣工後に中段の露天甲板に配置された。
同様に艦種変更を経た「赤城」が32.5kt を発揮したのに対して速力は実速26.7kt(公称27.5kt) 止まりであった。「赤城」が巡洋戦艦として設計されたのに対し、加賀が戦艦として設計されたためである。十二基の重油専燃罐と四基のタービンによる出力は9万1000馬力であった。戦艦は重防御で被弾面積の縮小のため船体を短く設計するが、その反面、重量と推進抵抗が大きくなり、高速力を発揮しにくくなる。また飛行甲板も短くなるので空母への改造は巡洋戦艦の天城級の方が適正だったのは否めなかった。なお、計画段階での戦艦としての能力は加賀型戦艦の項を参照。
改装案として最初にアメリカ海軍のレキシントン級航空母艦のような大型の艦橋を持つものが検討されたが、航空機の発着や友鶴事件を経て重心の低下と風圧側面積の減少に配慮し、格納庫、飛行甲板、艦橋が縮小され、直立煙突の採用は見送られた。
加賀には数々の不具合があったため「赤城」より一足先、1934年(昭和9年)6月より改装工事が着手され、1935年(昭和10年)12月に工事が完了した。改装工事の工数は多く、日本海軍艦艇中、一、二を争うほどの大掛かりなものであった。
問題の多かった排煙方式は「赤城」と同じ弯曲煙突式とし、位置を機関上部右舷に修正した。これによる重量軽減は100トンにも及び、乗員も煙路の高熱から解放されるとともに艦尾から排出される排煙が気流を乱し、航空機の着陸を妨げるという欠陥も解消した。
また三段式飛行甲板の中下段は廃止され、最上段のみの全通式の一段甲板とした。最上段の飛行甲板は船体長を上回る長さになり、離着陸の滑走距離が大幅に延長された。この際、若干艦尾方向が高くなっていた傾斜飛行甲板はフラットなものに手直しされた。また中下段の飛行甲板の廃止により航空機の格納スペースも増加し、搭載機数も常用72機、補用18機の合計90機と大幅に増加している。改装後の加賀は以後に完成した日本の空母を含めても最大の格納庫面積があり、実際に運用した最大搭載機数は103機(ただし、九六式艦上戦闘機などを使用したもの)とのことである。燃料搭載量も8,200トンに増加し、航続距離が新造時の14ノットで8,000海里から16ノットで10,000海里に延びた。速力についても、機関出力の増大と艦尾延長により、それまでの実速度26.7ノット(公称27.5ノット)から28.3ノットまで向上した。
これらの改装により加賀は空母として一つの完成形に達した。ただし改善されたとはいえ速力28.3ノットは大東亜戦争開戦時の日本正規空母の中では最も低速であり、他の空母と行動をともにする際に障害になったと言われる。だが加賀は航続力や積載力が大きく、作戦立案がしやすい長所があり、たとえば遠距離外洋航行のハワイ作戦では優先的に作戦参加が決められた。ハワイ作戦の事前調査では「加賀」は燃料搭載に余裕があり、公称値以上に航続力があると判定された。このため「加賀」と新型の「翔鶴」「瑞鶴」の3空母による作戦実施も当初は検討されていた。この案には二航戦の山口多聞が反対して「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」も作戦に加わったが、これらの空母は艦内に燃料用ドラム缶を多数積載しての作戦参加であった。対空兵器も増強され、連装12cm高角砲を連装12.7cm高角砲に換装、数も6基から8基に増備し、反対舷方向にも射撃が可能なように高い位置に取り付けられるなど、航空艤装、攻撃力、防御力の面で僚艦の「赤城」を凌駕していた。
さらには船体が安定しており揺れが少ないこと、艦橋部分の飛行甲板幅も29.5mあるなど広大な飛行甲板を持つこと、その飛行甲板自体も海面より高い位置にあるため(21.7m)各種の作業が波の影響を受けにくいこと、艦橋が右舷前方にあるため着艦時の圧迫感もなく、気流の乱れが少ないことなどの利点があり、使いやすい空母として好評だったと伝えられる。空母「飛龍」(飛行甲板217m、幅27m)から転勤した山川(九九艦爆)は、最初の着艦で「加賀」の飛行甲板の広さに驚いている[8]。これらの特徴に加えて中国戦線を経験したパイロットを多数擁することもあって「加賀」は日本機動部隊の最有力空母としての位置づけにあった。
しかし、問題点もいくつか残されていた。中段飛行甲板に設置された20cm連装砲二基四門は撤去され、代わりに船体後方の舷側にケースメイト式のものが四門追加され、数の上では改装前と同数が維持されたが、この配置は視界、射界ともに狭く、運用実績も不良だった。そもそも航空戦を主体とする空母には不要な装備であり、昭和8年の改装計画に基づくものとはいえ、先見の明を欠いた。アメリカ海軍空母のレキシントン級でも8インチ砲が装備されていたが、艦橋・煙突の前後に背負い式に配置しており、甲板への爆風と重心上昇の問題はあるが、こちらのほうが合理的な配置であった。また、右舷前部に新設された艦橋は重心上昇を考慮してコンパクトなものが設置されたが、最低限の設備しかなく、作戦の指揮を行うには狭すぎるものだった。
「加賀」に限らず、日本空母の共通の欠点としてダメージコントロールへの配慮が足りず、格納庫を閉鎖式にしたことは航空機の塩害からの保護という利点はあるものの、被弾時の被害を増加させ、後の喪失の原因となった。開放式のヨークタウン級航空母艦やエセックス級航空母艦では被弾時にあっても爆風が外に逃げ、また空母搭載の爆弾や航空機などの危険物を海中に投棄することで誘爆や航空機への延焼被害を限定できた。閉鎖式格納庫の危険性については米空母「レキシントン」、日本空母「大鳳」の喪失原因を参照されたい。
これら近代化改装の結果、加賀は後の「信濃」が完成するまで日本の航空母艦の中では最大の排水量であった。加賀の改装工事はかなり徹底したもので、全通一段甲板、右舷前部の小型艦橋、下向き湾曲型煙突、飛行甲板周囲の対空砲火という艦形は後の日本空母の多くに採用された。また水面からの飛行甲板までの高さが21.7mと日本空母のなかでは一番高く、航空機の離着陸には好都合な反面、重心の上昇が心配されるところであったが、両舷にバルジが新設されたこと、予備浮力の大きい幅広な船体、低重心の戦艦からの改造が幸いして運用面で問題がなかった。荒天のハワイ作戦時においても船体の揺れは新型の「翔鶴」よりも少なかったと報告されている(横揺れについて最大「加賀」3度、「飛龍」11度、「翔鶴」20度)。
また、飛行甲板前部に空母用カタパルトの設置のための溝をつくる工事も行われたが、空母用カタパルトそのものが実用化されなかったため、結局未搭載のまま大東亜戦争に突入、カタパルト完成の機会はなかった。日本海軍は終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかった。
ミッドウェー海戦には「赤城」「蒼龍」「飛龍」の3空母とともに参戦した。米機動部隊艦載機の奇襲を受け航空機から洩れた燃料が艦の動揺と共に甲板に燃え広がり、手がつけられない状態となる。「加賀」は艦尾から沈没した。
「加賀」は同海戦に参加した艦艇の中でも人的被害が一番多く、岡田艦長以下約800人が犠牲となり、その多くは艦内の火災で脱出不可能となった機関部員だった。生存者の証言も前述のように混乱しており、戦闘詳報にも『本報告は生存者の断片的記憶を整理調製せるものにして、資料不備の為、内容中の必要事項及其の精粗調はざる点あり。照合資料を得次第、訂正を期す』と記載されている。被弾数は沈没した日本軍四空母の中では最も多く、同海戦における加賀搭載機搭乗員の戦死者は、楠美正飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名だった。少なくとも7機の零戦が「加賀」戦闘不能後も空母「飛龍」に着艦して戦闘を継続したが、「飛龍」の沈没と共に全機が失われた[47]。搭乗員は、付近を航行する軽巡洋艦「長良」(南雲忠一中将乗艦)や駆逐艦「萩風」に救助された。
現在、「加賀」乗組員の慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。
Wikiより抜粋
同型艦:
- この艦(航空母艦として)に同型艦はありません (計画上の戦艦としては土佐)
考証
当初、4本支柱でミッドウェイ時 > 真珠湾時に変更としてきましたが、作成中に入手できる可能な限りの資料と影像、画像を基に私は加賀の支柱を以下のように結論づけました。
ただし、今後の資料如何で私の個人的な意見は変わります。
加賀に支柱6本の時期はなかった。(2011/5/20)
真珠湾攻撃時は 4本、ミッドウェイ攻撃時~最終時は4本、途中で6本の時期が存在した。(2011/8/23)
真珠湾攻撃時は 6本、ミッドウェイ攻撃時~最終時も6本。(2011/8/23)
Yahoo!知恵袋にある方の質問と回答がありましたので転載いたします。
空母加賀の飛行甲板前端の支柱はいつから6本?
質問内容:フジミの空母加賀の新キットをハワイ海戦(真珠湾攻撃)時の状態にしたいと考えています。
スターリング湾での写真を根拠に、空母加賀の飛行甲板前端の支柱が6本になったといわれるようになったのはここ5年ぐらいかと思いますが、この写真自体はかなり以前から知られています。
最近見かけるようになったミッドウェー海戦時の炎上写真では4本に見えますが、あの写真は米空母バンカーヒルの炎上写真を利用した合成写真ですので、昭和17年2月の段階で6本になっていたのは間違いないと思います。
そこで、加賀の行動記録・入渠記録などから、具体的にいつ改装されたか推察できないでしょうか。
質問内での補足
昭和17年3月に佐世保でとのことですが、私は3月まではいかないと考えています。
それは、6本の根拠となっている写真の撮影日のためです。
学研「歴史群像シリーズ『日本の航空母艦パーフェクトガイド』」の
ワイド折込み〔3〕の水野行雄氏の解説文では、
昭和17年2月22日とされています。
ベストアンサーに選ばれた回答
1942年2月9日、パラオでの艦底損傷の後、3月22日に佐世保に寄航し修理を行っていますので、その時ではないでしょうか?
質問内での補足
なるほど。2月22日ということはポートダーウィン攻撃を終えたすぐ後ということですね。
そうなると、真珠湾攻撃からそこまでは改装する暇があったとは思えないのですが・・・もう少し調べてみます。
質問内での再補足
やはり、1942年3月22日より前に改造があったとすると、1938年末(12月15日)から佐世保に入渠した時まで遡ると思われます。
となると、真珠湾攻撃時には6本あったと考えざるを得ませんね。
ちなみに、真珠湾攻撃から1942年2月22日までの間に改造を行えるようなタイミングは一切ありませんでした。
出所 Yahoo!知恵袋より抜粋
以上のミッドウェー時の攻撃で炎上している写真は空母バンカーヒルの炎上写真の合成であるというWEB上の書き込みや、実際にスターリング湾で撮影された写真が6本であったのは決定的であり、間違いないと思います。ミッドウェー前からは確実に6本支柱であったことは間違いありません。
以下行動年表
赤色文字は下記推測からなる私の意見で事実の裏付けの取れてない行動年表記録です。
1935年 全通甲板大改装の完了 写真1枚目 4本支柱確認↓
1936年 着艦訓練時写真 写真2枚目 4本支柱確認↓
1938年 12月15日 飛行甲板延長、艦橋工事など 上記知恵袋ではここで6本改造とありますが、1940年の写真が未だ4本支柱であることから 4本支柱↓
1940年 日中戦争時 中華民国近海 写真3枚目確認 4本支柱↓
1941年 5月1日~14日 佐世保海軍工廠入渠 (参考:6本支柱化の可能性のある入渠時期候補A)
6本支柱↓
1941年
11月11日~14日 佐世保海軍工廠入渠この期間での6本支柱での改装は入渠期間的に不可能?おそらく舷外電路? 6本支柱↓
1941年 12月5?日の真珠湾への進軍中の画像 写真4/5枚目6本確認 自己解析ではありますが未だ4本であったと思われます 6本支柱↓
1941年 12月23日~翌年1月9日 柱島泊地、呉駐留 (参考:6本支柱化の可能性のある時期候補B) 6本支柱↓
1942年 2月22日 スターリング湾停泊中の加賀右舷の写真 写真の傷ではない6本が確かに確認できる 6本支柱↓
1942年 3月22日 佐世保入渠 (参考:4本支柱へ再度変更の可能性?)
可能性を考えましたが、戻す理由が全く見当りません。 6本支柱↓
1942年 問題の合成写真(最終時) 4本支柱ねつ造。海外で見つけた右舷斜め前上空からの被弾による煙のでた状態の加賀写真(2011/12月現在でも見当たりません) 6本支柱で戦没
確かに4→6の改装時期が正確な記録としてどうしても発見できないため特定できません。ただ、時期が特定できないだけで、6本が特定できないわけではありません。諄いようですが、6本は間違いありません。
行動年表記録で推測可能な4→6本の改装タイミングは
1941年 5月1日に母港の佐世保に入渠(同月14日)までという記録が残っていますので、ここしかないかもしれません。(が、それだと私の主張開戦時4本支柱は間違っていることになります。 現在は6本支持です。)
私の推測が正しいと仮定すると、王道から逸脱した異論ではありますが、母港以外での支柱補強があった。時期は真珠湾から12月23日に柱島泊地へ帰投して、それから出港までの兵員休暇の半月間の間に進軍時の荒天下の飛行甲板のはげしいしなりからのフィードバックで6本化を呉工廠で行ったと想定。 指摘はなかったのですが、どう考えても1941/5/1が自然です。12/8の戦勝ムードでその改装を行ったとは考えにくい事と、当時は現在と違い、図面を佐世保から廻してからの6本改装用の図面引きでは時間的に間に合わない。
ミッドウェー時の4本支柱写真は、ここ数日探し回ってますが、実は問題の合成写真以外に、ミッドウェー時の米軍機が撮影した右舷右前方より支柱が確認できる煙が出ている写真を、アメリカのサイトのどこかで見たのですが、それが探しきれません。この写真は合成ではないとおもいますが、確かに4本支柱でした。(この写真は、昔、例の合成写真を見ての曖昧な記憶であった可能性があります。)私がこの製作記にミッドウェー時は4本と言わした根拠なのです。が、当面(それが見つかれば確定的ですが) 現在は確定敵に6本支持です。
と言うことで更に推測するに、実はこの1942年2月22日スターリング湾以降で3月にジャワ島方面で作戦を行い、同年3月11日にスターリング湾に再入港して3月15日に出港、3月22日に母港の佐世保に帰投、同年5月4日まで修理に従事との記録が残されていますので、ここで6本から4本に戻されたと推測しています。 ただし、その写真が出てこないので、ここでも決定的な証拠には至っていません。 何度、どう考えても戻す理由が見当たりません。(2011/8/24)
引き続き、検索して行き、発見次第、掲載致します。無論、真珠湾進軍時のフィルムもコマによっては、6本に見て見えなく無いコマも存在していますので、私の解析が絶対ではありません。 6本で間違いないと考えます。
結論:他のキャプチャ画像を解析しても現在は開戦前より戦没時まで6本支持とします。
私のある支援者の祖父の方が2011年8月現在ご存命で、秋雲に乗艦なさってらっしゃったという話(と、それに付随する逸話)は既述ですが、同様に、加賀もしくは、真珠湾作戦時に加賀の状態を覚えていらっしゃる方が元気にご存命であられることを、またそのお話をどこかのサイトで見られることを切に望みます。
この記事の手助けを下さいました方々に深く感謝致します。
参考までに、実際の加賀をご覧になり、自身も真珠湾攻撃に参加なされた、お祖父様に加賀について聞いていただいたようですが、結論は判らないとのことでしたが、
「おじいさんが「加賀」で印象に残ってるのは単冠湾に集合時に真珠湾用の航空魚雷を最後に積んで来て、各空母につみ直したときの事とか、「赤城」に比べて重厚感のある空母だったって印象で、個別の箇所については判らなかったよ。」
とのことです。単冠湾での行動の生きた証言を頂戴することが出来ました。あの帝国海軍最高の腰高(赤城より加賀の方が高いのです。)の空母が荒天下の海を進軍する姿、えらく沈んでる印象はこのあたりなのでしょうか?
動画はこちら 加賀実艦影像です
使用部品
- フジミ製 加賀 特48
- フジミ製 加賀専用エッチングパーツ
- フジミ製 加賀専用木甲板シール付属品一部 (付属のエレベーターと遮風柵の一部などのエッチングのみ使用)
- ハセガワ製 アンカーエッチング
- ライオンロア/ピットロード製 舷外電路
- ファインモールド製 アンカーセット付属のフェアリーダー
- アドラーズネスト製キノコ型通風筒 1300*900
- フラグシップ製 超極細チェーン
- 各種伸ばしランナー
- ファインモールド製 ボートアクセサリーセット
- フライホーク製 ストレート手摺セット
- アドラーズネスト製 ボラード
- ライオンロア/ピットロード製 絡車 (大和セット付属のものを使用)
- 0.28mm銅線
- レインボーモデル 艦載機セット
- レインボーモデル 甲板上セット
- 真鍮線 0.3mm
- ライオンロア/ピットロード製 穴あき三角桁
- ホビーベース製 0.14*2.5mmプラペーパー
- ピットロード製艦船装備セットII NE-02
- フライホーク製 弾薬箱セット
- レインボーモデル 探照燈セット
- 海魂製穴あき三角桁 3.5mm長
- ライオンロア/ピットロード製 火器制御シールドシャッター (大和セットの付属の余分を使用)
- 海魂製 12.7cm真鍮砲身
- 海魂製 20cm真鍮砲身
- 海魂製 リベット付汎用補強バー
- レインボーモデル 110°すべり止めパターン
- ホビーベース製 0.14x1.0mmプラペーパー
- レインボーモデル 係留孔テンプレート
- レインボーモデル 対空防弾板セット
- 海魂製フェアリーダー (他艦向け余剰分)
- 真鍮線 0.5mm
- レインボーモデル 火器制御エッチングセット
- 海魂製 25mm連装機銃
- 海魂製 12.7cm高角砲セット
- 海魂製 起倒式マストセットB
- レインボーモデル製 穴あき桁
- レインボーモデル製 穴あき桁組み付け用
- 海魂製 穴あき桁組み付け用
- 海魂製 0.75mm穴あき桁
- 海魂製 空母甲板上セット
- レインボーモデル製 探照燈セット (エッチング)
- ファインモールド製 探照燈セット (キット)
- 海魂製火器制御器具エッチング(双眼鏡)
- レインボーモデル 火器制御器具II (Iで不足だった部分の使用)
- マスキングテープ 5cm幅、1.5cm幅、1cm幅、2.5mm幅、1mm幅、0.4mm幅
- 海魂製土嚢セット
- ライオンロア/ピットロード製大和セット内のカッター用エッチング
- レインボーモデル ブリッジ周り用エッチングから舵柄信号標
- 海魂製 ボートダビットセット
- ライオンロア/ピットロード製艦船信号旗デカールセット
- 金属テグス(ブラック)
製作工程
PITROAD 2011
- 船体
エッチングによる右舷甲板上主錨の交換
主錨を保持する索を伸ばしランナー加工により再現
船体右舷0.4mmピンバイスにて舷窓開口
船体右舷アンカーホール1.2mmピンバイスにて開口
船体右舷エッチング交換予定部分のモールド削除
船体右舷ライオンロア製舷外電路の敷設
船体右舷の一部ピンバイス開口>形状合せ>Mrセメントでのならし
船体右舷の開口部分の0.3mmプラバンでの裏打ち
船体左舷のエッチング交換予定部分のモールド削除
船体左舷のアンカーホール1.2mmピンバイスにて開口
船体左舷0.4mmピンバイスにて舷窓開口
船体右舷ライオンロア製舷外電路の敷設
船体梁の取り付け>船体接合時の接着柔軟度と強度の確保
接合後の舷外電路結合
甲板との整合性のチェック 船体頂部ヤスリがけ(艦橋部の段差はヤスらないよう注意)>甲板配置(非接着)にて整合性チェック
後部下甲板のアンカーホール11mmピンバイス開口
キャプスタンをキノコ通風筒+プラ棒(太めの伸ばしランナー)のスライスにて再現
超極細チェーンにてチェーンのリプレイス(キャプスタンに巻き付け設置)
架台のモールド削除>エッチング架台設置>縁の暗め塗装>軍艦色塗装
両舷に収納される内火ランチと内火艇の塗装>加工>設置 (この部分はあとからの作業が出来ないので、先に塗装して加工>接着してマスキングで囲っておいてやります。)
船体後部内面の形成凸の切削修正
12m内火艇加工(旗竿、救命浮標、両舷ハンドレール)
写真2枚目が取り付けした状態です。後ほど12m内火艇は更に加工予定です。(ピットロード製11m内火艇加工時に予定)
下前甲板に加工に沿った開口、モールド削ぎ落とし、使用部品準備
下層前部甲板アンカーホールからキャプスタン経由引き込みまで超極細チェーン配置
0.5mmピンバイスホールを設けてボラード取り付け
同キャプスタン3箇所取り付け
1mmプラ棒に0.28mm銅線を巻き付けてホースリース製作、設置 左右1箇所づつ
艦首パテ埋め後の処理修正
艦首0.4mmピンバイスでの浅めの開口
0.3mm真鍮線主軸、支柱x2の真鍮線切り出し接着>接合部分の黒瞬処理(ガス硬化)
1層上の甲板のブルワークと突起削除
同甲板の穴あき桁と手摺取付及び1mm高のエッチングブルワーク取り付け
船体前面の舷窓開口、パテ埋め、モールド削除
下層前面甲板の塗装(後塗りできなるため事前作業)、同中層甲板裏の塗装>接合
船体前面のパテ埋め部分の修正>エッチング取り付け(舷側へかぶる部分は除く)>下層甲板との接合
後部甲板の取り付け前に格納庫周囲の事前塗装(陰影を付けるため暗めの軍艦色使用)>後部甲板設置
船体底部のバラスト取り付け(コツは写真参照)
後部甲板後部支柱の0.4mmピンバイスによる開口 (支柱窪みまで彫らないよう注意)
後部甲板前部支柱のモールド削除と探照燈の取り付け凹のパテ埋め
2mm角、1.5mm角のプラペーパー切り出し、ライオンロア穴あき三角桁の用意、ピットロード探照燈取り付け
内側を除く部分への手摺取付(上段の探照燈部分は手摺無し)
内側を除く部分への手摺取付(上段の探照燈部分は手摺無し)
ボート甲板の穴あき桁+手摺の設置>下層甲板の手摺設置、最後尾の錨見台の設置
後部甲板後部支柱の取り付けで飛行甲板を当てて整合性を図って固定(飛行甲板への固定は行わない)>基部のパテ修正
後部甲板前部支柱の取り付けも同様に飛行甲板を当てての整合性確保(飛行甲板への固定は行わない)
金属砲身は20cm砲身を使用。ただし、露出部分が長いため、くびれ1.2mmの位置で詰めて砲塔へ取り付け、仰角、軸線の確認、PL処理
塗装後、(プライマーサーフェーサー>軍艦色>キャンバス地パテ素材色、凹部墨入れ)船体取り付けまでの間、保管
後部甲板の各種エッチング設置
船体マスキング後>プライマーサーフェイサー吹き
後部甲板前部支柱の配管設置>配管止めの作成>各所配管止め設置
後部甲板後部支柱の配管設置>各所配管止めの設置
細かな部分の三角桁を薄く肉削ぎ
両舷係船桁再現の準備(キット取付用穴の閉塞)>係船桁準備>収納状態の再現のロープ設置
右舷待避所?の取付用角穴閉塞>エッチング設置
待避所?の裏側の三角桁の設置
ファンネルの加工、内部のモールド削除、パテ修正、整流版、ジャッキステー類の設置
ファンネル支柱の設置前に右舷前部の不要穴の閉塞
右舷中央上部張出し甲板の加工、肉削ぎ、ブルワーク交換、連装機銃設置、弾薬箱、捨て箱、探照燈台座、探照灯の設置
同甲板の底部三角桁のリプレース
船体右舷エッチング交換予定による不要角穴のパテ埋め
前部下層甲板の取り付けと船体前部との隙間のパテ埋め修正
船体左舷エッチング交換予定による不要角穴のパテ埋め
前部飛行甲板支柱4本の枝支柱のカット
後部甲板同様支柱の整合性の確保
右舷左舷の船体支柱のエッチング交換、手摺設置など各種エッチング類交換
右舷前部の舷外通路設置、踊り場の支え三角桁設置、信号灯メンテナンス張出し台設置
右舷中央部キット支柱交換に伴う凹のパテ補修
船体後部のクレーン部分の追加工作>エッチングクレーン交換と純正で再現されないワイヤー滑車の再現
右舷前~中部のシールド付高角砲座の加工>三角桁設置、シールド部分か加工、砲身交換
シールド高角砲砲塔周囲にリベット補強筋を設置
同高角砲座支柱の加工
高角砲座張出し甲板と船体構造物との間の大きな隙間をパテ補修
船体中央部に省略されているフェアリーダートボラードを設置
両舷張出し連装対空機銃銃座の加工>モールド削除>ブルワーク設置>1mmプラペーパー切り出しの三角補強板作成設置>手摺取付
高角砲座(シールド無しタイプ)のブルワーク削除>補強筋入りブルワーク交換>穴あき三角桁リプレイス
前部高角砲座間と前部後部との連絡舷外通路の加工設置(長さ詰め、角度調整)
甲板加工でキットは下降状態の作成は前提ではないのでキットを分解加工>設置、エレベーター横壁取り付け
同エレベーター加工でプライマーサーフェィサー吹き
格納庫内内壁作成、奥まった部分を佐世保+つや消しブラック混色で塗装、マスキングして、エレベーター面と、エレベーター側壁の上部を軍艦色で塗装
飛行甲板サーチライト格納部の開口
飛行甲板 前部、後部の鋼板継ぎ目の再現(環眼パターンを考慮して4mmx8mmでけがく)
飛行甲板の環眼(係留孔)の再現
右舷中央部最後の張出し甲板の設置手摺などのエッチング類設置
右舷後部対空機関銃張出し甲板の加工 床すべり止め交換、防弾ブルワーク交換、連装機関銃全リプレイス、弾薬箱、捨て箱設置、着艦指導灯の設置
右舷詰め作業 スポンソン支柱の真鍮線交換、張出し見張り台のエッチング交換、各所の水密ドア設置
左舷前部足場エッチング設置、舷外通路設置に伴う不要凹のパテ埋め修正>舷外通路の設置
左舷前部の高角砲座の三角桁交換、ブルワーク交換
左舷前中部の張出し甲板類準備>塗装(リノリウム部のみ)>マスキング>エッチング設置取り付け
左舷前中部の張出し甲板設置と、水密ドア配置(左舷側は類推部分が含まれます。)
左舷前中部張出し甲板のリノリウム部の塗装>マスキング
左舷機銃座の加工 ブルワークリプレイス>火器コントロールパーツリプレイ、パテ修正
左舷張出し甲板支柱の真鍮線でのリプレイス>取り付け>パテ修正
左舷中部までの水密ドア追加(一部推定を含む)
左舷中部までの手摺類、窓枠などのエッチングパーツ設置
左舷フェアリーダーのエッチングパーツでのリプレース
左舷高角砲座のブルワーク交換、三角桁交換 (重要:左砲座の三角桁は交換しないこと)
左舷後部機銃座の加工 床面110度パターン交換>ブルワーク交換
左舷各張出し甲板の支柱類の真鍮線加工及び交換
左舷各所の連装機銃リプレース(照門、防弾盾取り付け)、弾薬箱、弾薬捨て箱の設置
左舷最後部機銃座の床面交換、ブルワーク交換、手摺設置、連装機銃リプレイス(照門、盾装備)、着艦指導灯設置、弾薬箱、弾薬捨て箱設置
右舷起倒式マスト作成、(基部、横桁部、登りばしご)2基 1基設置(1基は艦橋取り付け時に)
左舷起倒式マストの再現(純正は想定外のため、他社製基部歯車のみ流用にて)2基作成、設置固定
甲板上の遮風柵のモールド切除
遮風柵部分の開口、断面処理
開口後、木甲板部分の塗り分け:1層目タン+ダークイエロー 2層目タン+ウッドブラウン 3層目タン+薄松葉色 4層目タン
甲板塗装の乾燥の合間に高角砲の準備(6基)ベース、穴あき桁、梯子、砲身、本体(レジン)、後部引き器具類、足場のエッチング使用
4層目のタンが乾燥し終わったら軍艦色吹きの準備のマスキング処理
遮風柵の加工 純正は折り曲げるだけなので加工必須>切断>甲板部分の断面に穴あき桁を設置
切断した底板部分に対してパターンに沿って穴あき桁を配置
完成した底板部分を先ほどの開口した遮風柵の位置へ埋め込み
甲板裏の補強筋(桁)再現のためモールドそぎ取り(前部全て、後部、支柱と干渉しない部分を見極めて)0.75mm高の穴あき桁配置>縦桁、横桁の見え方によって縦桁1本か横桁1本かを適正に判断して配置(横からよく見える場合、縦桁を1本ズドンと通す感じで平行になる横桁は細切れの配置)
飛行甲板デカール塗装様マスク作成をイラストレーターにて行う。後述の塗装済み甲板を実寸スキャンして位置の確認を行う。
位置が正確に設定できたら、カッティングマシンでカットさせてマスクを作成。
飛行甲板裏の塗装準備:プライマー>サーフェイサーで下地処理を行う。
飛行甲板表の鋼板部分の塗装準備:プライマー>サーフェイサーで下地処理を行う。
裏表の鋼板部分を軍艦色でエア吹き(後で汚すので佐世保色は使いません)
塗装が終わったら、ゆっくり丁寧に木甲板部分のマスキングを剥がす。
飛行甲板をフラットでする作業は終了したので、凸となるエレベーター部分の固定用枠を取り付け
甲板表側の塗装:艦尾ストライプ部分を白吹き>マスク>赤吹きで塗装
白線の塗装:先ほどカッティングマシンで作成したマスクを使用して白線引きを行う。一気に実行すると失敗する可能性があるので(塗装ではなく貼付作業が)2つにカットして実施
白は適度に吹いてあまりくっきり白を出さない様にする。
マスク剥がしはとにかく丁寧に、(いくらプライマー、サーフェイサー処理してても、使用してるマスクはあくまで粘着力のあるカッティングシートである為)
探照燈の再現:裏打ちプラバン、探照燈基部のエッチング使用、ファインモールド製探照燈使用、海魂製探照燈カバー使用
エレベータホールエッジに穴あき三角桁を配置
艦橋部のリノリウム部の塗り分け
各種火器コントロール器具のエッチング配置
艦橋頂部の各種エッチング設置:アンテナ、張り線支柱、火器制御機器類、双眼鏡類
艦橋内部へ双眼鏡類設置
艦橋窓をランダムにガラスはめ込み(スチロール樹脂溶剤)
船体の塗装準備プライマーサーフェーサー
艦艇部の塗装>1mmマスキングの貼付
軍艦色塗装(汚しなどの処理を行いますので佐世保色は吹かず、横須賀色を使用します。)>過去のマスキングと艦底部分のマスキング除去
艦橋工作追加:マントレットの設置、防弾ロープの設置、>塗装、墨入れ汚し
後部内火艇、カッター類の準備、塗装
甲板接合、隙間硬化、処理
艦橋取り付け、艦橋後部マスト取り付け、艦橋張出し部分支柱の真鍮線交換
船体の墨入れ>錆び書き>錆び入れ>全体に汚しウォッシング(かなり薄めで吹き取りなし) これはしばらくこのまま放置します。
船尾部分のカッター、内火艇用意、ディテールアップ、塗装>固定>伸ばしランナーによる固定ロープ再現
舵柄信号標の用意、塗装(丸が緑他方が赤)甲板エッジからテグスを引き、舵柄信号標を接着、舵柄信号位置白線の塗装
甲板支柱の梁の真鍮線交換(全て交換)、塗装
前支柱の設置、梁の真鍮線への交換、塗装
セーフティーネット(人員用、航空機用)、制止索、制止柵、艦橋周り手摺の設置>塗装
周囲の偽装小物類、(小さな昇降用ラッタル、アンテナ支柱類など)
前甲板支柱の梁の真鍮線にて作り直し
飛行甲板周囲、遮風柵仕上げ、同、索の設置(飛行甲板周囲は写真から、棒の先のわっかに索を通した物が飛行甲板周囲に張られているので(ジャッキステイに類似)それを再現、樋ではなし)
前檣の4本の支柱索、信号旗ロープ6基12本、滑車の再現、船体周囲のロープ設置
周囲の偽装小物類、(小さな昇降用ラッタル、アンテナ支柱類など)
前甲板支柱の梁の真鍮線にて作り直し
飛行甲板周囲、遮風柵仕上げ、同、索の設置(飛行甲板周囲は写真から、棒の先のわっかに索を通した物が飛行甲板周囲に張られているので(ジャッキステイに類似)それを再現、樋ではなし)
前檣の4本の支柱索、信号旗ロープ6基12本、滑車の再現、船体周囲のロープ設置
両舷4艘のカッター作成:ピットロード製使用(切り込みがあり、細かなディテールがお奨め)不要な台とつり下げ時の穴削除>オール設置>塗装>T字のチェーンをテグスで再現
カッター取り付け、グライプバンド取り付け、ロープ(支索)取り付け、艦首へのロープ再現
艦首飛行甲板支柱の配管再現(留め具再現含む)
信号旗準備:戦闘旗準備 デカール>アルミホイル貼り付け>軟着剤塗布>乾燥後切り出し、形状を整えて信号旗ロープ、戦闘旗ロープへ掲揚
艦載機の配置:今回は後部より九七艦攻>九九艦爆>零式の順に配置、
艦載機の製作は こちら
甲板上の作業再現用に運搬架台4基、梯子4脚、カウル台5基設置
最終レタッチ
張り線前に水性マットコートでトップコート(張り線後だと垂れダマ危険大)
金属テグスにて支柱、マスト間などに張り線
最終レタッチ確認
ドライブラシ
完成
特別製作のため製作工程順に写真と工程を箇条書きにしたのもといたします。
全ての工程に共通のゲート処理、パーティングラインの処理は必ず行う事として工程にて特別記載は都度行っておりません。
完成写真
HULL SCAPE
ZOOM UP
- 撮影環境
- ミニクリプトン球(電球色)4燈直射による自作撮影ブース
- 撮影に使用したカメラなどの機材
- Nikon D90, Nikon AF-S NIKKOR 18-55mm, Kenko CLOSE-UP Lens f330 52mm, SLIK三脚
- 撮影時のカメラの設定値
- F-18, NOFLASH, ISO100-1400, 露出補正+2
製品所在
完成後、ピットロードコンテスト出展、入選作品選定後、一定期間ノースポートにて展示後、一旦中部在住のコレクター様(当工廠有力支援者様)に所有権譲渡。(作品は当工廠ショールーム保管)
その後、記念寄贈にて当工廠にて、ガラスショーケースにて展示陳列
あとがき
あとがきはありません。