概観諸元

分類:艦上戦闘機 (海兵隊の陸上運用あり) クラス:戦闘機
機体略号:F4U
運用開始:1942年12月28日
名称:F4U コルセア
型式:F4U-1
製造:チャンスヴォート社
全長:10.16m 全幅:12.5m  全高:4.9m 自重:4,073kg (全装備重:-kg)
兵装:M2 12.7mm機銃×6 127mmロケット弾×4 または 爆弾907kg
乗員:1名
エンジン: R-2800-8 2,000 hp
最高速度:671km/h
航続距離:1,634km(正規)
上昇限度:11,200m
コードネーム 日本海軍呼称:シコルスキー

概要

F4U コルセア (F4U Corsair) は、アメリカのチャンス・ヴォートが開発し、第二次世界大戦と朝鮮戦争でアメリカ海軍と海兵隊が使用したレシプロ単発単座戦闘機である。
ヴォート社の他にグッドイヤー社とブリュースター社でも生産され、グッドイヤー社製の機体はFG、ブリュースター社製の機体はF3Aという制式名称が与えられた。
また、AUという呼称がある攻撃機型も存在する。
ブリュースター F2A バッファロー艦上戦闘機などの後継として航空機メーカーのチャンス・ヴォートが1938年2月に開発を開始した。
Corsair:コルセアとは海賊の意。逆ガル翼が特徴的な機体である。
1938年2月にアメリカ海軍が、戦闘機の開発要求を出し、チャンス・ヴォートは4月に1,200馬力級エンジンを搭載するV-166A案と2,000馬力級エンジン搭載のV-166B案を提出した。当時、戦闘機用エンジンの主流は1,000馬力以下であったが、6月11日にV-166B案がXF4U-1として、海軍より試作発注がなされた。当時としては大きさも怪物級であり、海軍で一番大きなプロペラをつけた、海軍一重たい艦上戦闘機となった。
初飛行は1940年5月29日である。試作機XF4U-1は一度墜落事故を起こしているものの、時速650kmを記録するなど、性能は良好であった。
量産型F4U-1の初飛行は1942年6月25日である。機体は完成したものの、F4F ワイルドキャットの後継機としての座はF6F ヘルキャットに譲っている。
失速挙動が危険・前方視界が不十分・プロペラブレードが長く下手をすると着艦(着陸)時に甲板(地上)にプロペラを打ち破損する可能性がある、といったものがその原因であり、すでに艦上での実績と戦果もあるF4Fの設計改良版であるF6Fのほうが信頼性に優れるため、ということだったようである。
このことから一部の意見では「航空母艦に搭載される為の機体設計をしなかった欠陥機」との意見もある。
航空母艦への着艦が難しいとの評価が下されると、初期生産機はすべて海兵隊に引き渡され、陸上機として運用された。
この機体は主に太平洋戦線に現れ、初陣で零戦に「セントバレンタインデーの虐殺」と呼ばれる敗北を喫する。
日本側搭乗員からF6Fは手強かったという証言が多かったのに対し本機はそれほど苦手意識は持たれていない。
本機は加速性能はいいが上昇率は高くなく最適上昇速度も232km/hと低い。 運動性は高速時のエルロンの利きはいいが低速時は悪く、ラダーも重くてスピンからの回復が困難など問題を抱えていた。
このような問題があるためベテランの乗る零戦なら十分互角以上に戦うことが出来た。
アメリカ側でも運動性のいい日本機相手ならF6Fの方がいいというパイロットが多かった。 太平洋戦争末期からはようやくアメリカ海軍の空母でも運用が開始され、持ち前の空戦性能を生かしての空中戦に加え、その馬力を利用した爆装も可能であり、戦闘爆撃機としての運用も行われ、硫黄島や沖縄などを攻撃している。
なお、本格的に空母に搭載されるようになったのは、初の本格的な戦闘爆撃機型であるF4U-1Dからである。もっとも元日本軍側搭乗員に対する戦後のインタビューでの回答では、多くの場合F6F程手強い存在とは認識されていなかった。
事実、本機の初陣「セントバレンタインデーの虐殺」で零戦と性能差があるはずに関わらず日本側が一方的に屠った事から、日本軍側には「ヘルキャットよりも落としやすい」機体だったのは確かであった。 しかしながらこの戦果は操縦者の技量による所もあり、大戦初期の日本軍は十分に時間をかけて訓練した熟練操縦者が中心であったが、後期以降は短期育成した新兵の比率が高くなっていた。太平洋の戦場だけでも、F4Uは64,051回出撃して、2,140機の日本軍機を撃墜しながら、F4U自体は189機を失ったのみであり、キルレシオは1:11.3である。この撃墜率は、航空戦の歴史の中でも類のない実績である。もっともこうした空戦記録は、アメリカ海軍に限った話ではなく、自軍の戦果を過大に見積もる傾向がある。実際には撃墜していない敵機を、撃墜したと誤認する場合が多いためである。例えば1945年3月19日に生起したF4U、F6F、SB2Cから編成された米艦上機160機と、第343海軍航空隊の紫電改58機との空戦では、米軍は撃墜50、日本軍は撃墜58を主張した。実際の損害は、米軍14機喪失、日本軍15機喪失にすぎない。しかしながらそれを勘案しても、F4Uが日本機に対して優勢だったのは事実である。ただし、F6Fが日本軍機相手に記録した1:19には及ばない。
F4Uはイギリス海軍にも供与され、本格的な運用は1944年から終戦までと期間的には短かったものの、アメリカ海軍よりも先の1943年の時点で空母イラストリアスで運用を行った。
イギリス海軍では左旋回しつつ着艦寸前まで視界を確保しながらのアプローチを行い、アメリカ海軍で問題とされた視界不良を緩和できた。
F4U-1はコルセア Mk. I、F4U-1Aはコルセア Mk. IIと命名され、F4U-1Dとその後期型であるコルセア Mk. IIIとMk. IVは、天井の低いイギリス空母格納庫への収容と低空における性能向上のため、主翼の翼端が切り落とされていた。
アメリカで製造されたコルセアはクォンセット・ポイントなどから護衛空母でイギリスへと運ばれた。戦艦ティルピッツを攻撃するタングステン作戦では、爆撃部隊の護衛としてその役割を果たした。
大戦末期にはイギリス太平洋艦隊へ編入された空母に同行し、日本近海でも作戦に従事した。 大戦後は戦闘機のジェットエンジン化が進んだが、初期のジェット戦闘機は木造甲板空母での使用に難があったため、戦後もF4Uの生産は続けられた。純粋な戦闘機としての任務はジェット戦闘機に譲り、レシプロ機は戦闘爆撃機として使われる事になったが、F4Uはこの目的にぴったりであり、生産は1950年代まで続いた。朝鮮戦争では海兵隊所属機として開戦当初に活躍した。また、当戦争で米軍初のMiG-15ジェット戦闘機の撃墜記録をもっている。 戦後はアメリカの同盟国に供給され、ラテンアメリカ諸国では長らく現役の座にあった。
1969年のサッカー戦争においても使用され、レシプロ戦闘機同士の最後の空中戦を行った。同年7月17日、ホンジュラスとエルサルバドル国境付近で起きた2度の空中戦において、ホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト大尉が操縦するF4U-5が、エルサルバドル空軍のF-51D 1機とFG-1D 2機を撃墜。ソト大尉は『最後のコルセア・ライダー』としてミリタリーファンによく知られる存在である。
当機はエンジンの交換、電子ポッドの装備など、数多くの派生型が存在している。これは当機が大型であった上、馬力にもかなり余裕をもって設計されているためにできたことであり、当機の設計の優秀さを物語っている。 アメリカ海軍軍用機の命名規則によりチャンス・ヴォート社に割り当てられた製造会社記号はUである。そのため、開発元のチャンス・ヴォート社が製造した機体であれば、この機体はチャンス・ヴォート社にとって4番目の海軍の戦闘機なのでF4Uとなるが、グッドイヤー社(記号G)が製造した機体では、グッドイヤー社はこれまで海軍戦闘機を製造したことは無かったのでFGとなる。また、ブリュースター社(記号はAでこれまで2種の海軍戦闘機を製造)製造の機体はF3Aである。さらに、チャンス・ヴォート社が製造したF4Uの攻撃機型は、チャンス・ヴォート社にとって初の海軍攻撃機となったためAUという記号がついた。当時のアメリカ海軍の命名規則では、このように同一の機体が製造会社などの細かな差異のために似ても似つかない複数の制式名称を持つようになってしまっていた。 一方、同じF4とついているグラマン社のF4F ワイルドキャットとはまったく別の機体である。このため、運用側(特に整備面)ではしばしば混乱を生じていたという。確かにF4という型番の機体が同時代に複数存在すると、紛らわしいのは事実である。 また、ハイフンを入れないF4Uというような表記が正しい型式であり、Fと4の間にハイフンを入れてF-4Uなどと表記される場合も見受けられるが誤りである。
なお、日本海軍では主に「シコルスキー」と呼称された。チャンス・ヴォート社が一時期シコルスキー・エアクラフト社と提携していた事に由来すると言われている

Wikiより抜粋

系列機:

使用部品

F4U-1 Birdcage corsair

アメリカ海兵隊 第213海兵戦闘飛行隊 James n. cupp大尉機 1943年9月

  1. 製作工程




    性能は兎も角、アメリカ軍で私の最も好きな機体はこのコルセアです。今回はその量産第1型バードケージコルセア。この機体は着艦に難があり(視界不良となる)海兵隊での運用からスタートしています。
    F4U-1はキャノピーが日本軍機のようにフレームが多かったことからbirdcage(鳥かご)と呼ばれています。
    ちなみに、私の好きなのは全てのコルセアです。追ってバリエーションを拡げます。(宣言か(笑))
    キットは限定モデルの2個1セットのハセガワバードケージコルセアです。モールドは貧粗でバリは多いですが、これは金型の経年によるもので、むしろ、躊躇無く接合面をヤスれるので、個人的には大歓迎です。
    コクピットは、軽めのブラシアップで、ラダーペダルハゲ、墨入れ、シートベルトステイとベルトの再現、壁面がつるつるで寂しいので、リノリウム押さえのエッチングを用いて補強フレームを組みます。





    カウルは分厚い感があるので、刃物の刃ほどに肉削ぎをしてやります。削ぎすぎは注意、丁寧に少しづつ行います。
    機体の接合部分は、サフ吹き>360>600>800>1000>2000と水研ぎして、再度サフで状態を見ます。
    全体を下地処理>塗装するので、キャノピーにマスクを施します。実はこの段階で既にエンジンは塗装済なので、マスクしてあります。
    ちなみに、私は定番タミヤのメタリックグレー(実はこれがつや消しでいい感じの金属感になります)を吹き、フィンに軽く焼鉄色を吹いて、最後に墨入れ仕上げをします。軽くシルバーでドライブラシも行います。
    底面のフラップギャップドアも先に再現しておきます。





    下地にアルミを吹いて、トップ地にニュートラルグレー50%とインターミディエートブルー50%の混色を吹きます。
    自作のマスクを張って国籍マークを塗装する準備をします。
    ネービーブルーが黒い日の丸に見えてなんだかコワイ(笑)。☆入ると普通に見えるんですけどねぇ。
    底面の主脚格納部分の内部を塗装、ピート管の真鍮線2本通しての再現、同三角板をプラペーパーで再現。エンジンプラグケール類の銅線による再現を行います。




    底面の排気管があまりにもぺっちゃんこなので、全てヤスって均し、開口後、真鍮パイプを加工したものを挿入してやります。斜めカットは艦船模型の棄て蒸気管製作の要領で、行いました。
    排気管を取付けたら、煤けた状態にエア吹きをして、細かなデカールを貼付して、機番の15をマスク後エア吹きしてやります。
    ちなみに、この番号、国籍マークの白地は白では無く、FS26440を吹いてます。
    最後に、アンテナ線を張って完成です。この工程上で、ウェザリングチッピングなどの作業も行ってあります。

    製作:岵囃子裕二 (タヌポンの工廠長)

完成写真

LAND SCAPE

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撮影環境
ミニクリプトン球(電球色)6燈直射による自作撮影ブース
撮影に使用したカメラなどの機材
Nikon D90, Nikon AF-S NIKKOR 24-85mm, Nikon AF-S NIKKOR 18-55mm, Kenko CLOSE-UP Lens f330 52mm, SLIK三脚
撮影時のカメラの設定値
F-18, NOFLASH, ISO100-1400, 露出補正+1.7

製品所在


2012年4/12日完成
屋風競市出展

あとがき


フラップダウンの駐機状態が一番好きなんですが、このキットでは、再現が困難でした。でも、大満足。

編集 岵囃子裕二(タヌポンの工廠長)@軍艦堂 トップへ