概観諸元

分類:航空母艦 クラス:改装空母
艦番:84艦隊計画第5号装甲巡洋艦(88艦隊計画6番艦)後、23計画特務艦(空母)
起工:1920(大正9)年起工 竣工:1927(昭和2)年竣工
型式:天城型 艦番:2番艦 (実際は、赤城単独型となる。)
艦名:赤城 2代赤城 初代:摩耶型砲艦の4番艦赤城。1890年竣工。1911年退役。
由来:地名 群馬県中央部に位置する赤城山に因む。
諸元:基準排水量:26,900トン 公試排水量:34,364トン 満載排水量:-,---トン
全長:261.2m 全幅:29m
兵装:戦艦時は記載しておりません。

竣工時
最終時
50口径20.3cm連装砲×2 撤去
50口径20.3cm単装砲×6 撤去
45口径12cm連装高角砲×6 撤去
- 撤去
- 92式4連装魚雷発射管×4
- 40口径89式12.7cm連装高角砲×4
- 25mm連装機銃×8
- 25mm3連装機銃×4


搭載機: 竣工時 三式艦上戦闘機16機, 十式艦上偵察機16機, 十三式艦上攻撃機28機 計60機
    開戦時 零式艦上戦闘機18機, 九九式艦上爆撃機18機, 九七式艦上攻撃機27機 計63機 (最大は常用66機, 補用25機)
信号符字 Juliet - Quebec - Bravo - Alpha
J Q B A

概要

赤城(あかぎ)は、かつて大日本帝国海軍に所属した航空母艦である。同型艦は天城(未成)。
太平洋戦争初期の重要な海戦において、機動部隊の旗艦として活躍したが、1942年、ミッドウェー海戦で沈没した。
艦名は赤城山にちなんで命名された。空母でありながら山名に由来する艦名がつけられた理由は、後述の艦種変更に起因する。
日本海軍が計画した八八艦隊計画により、天城型巡洋戦艦2番艦として呉海軍工廠で建造進水した。
完成前の1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が締結されたことから、条約に従い主力艦としての廃艦処分を回避するため、当時は補助艦艇であった航空母艦に改造されることになった。
なお、本艦の同型艦である天城も同様に航空母艦に改造される予定であったが、関東大震災により竜骨を破損したため破棄されることになり、代艦として加賀型戦艦1番艦であった加賀が航空母艦に改造された。
機密保持がさほど厳しくなかった昭和初期までは艦影が公開されて、広く一般に愛された。
建造当初の飛行甲板はイギリス海軍空母フューリアスの第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。
ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。
着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(本艦は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。航空機の発達にしたがい、飛行甲板の延長が必要となり、佐世保海軍工廠で1938年(昭和13年)に全通式の飛行甲板に延長する近代化改装がほどこされ、総排水量も41,300トン(公試状態)となった。
この時、下二段は閉鎖式の格納庫甲板となり拡張されて常用の搭載機も66機に増えた。また艦橋を重量配分から煙突と反対側の左舷中央部に設置したが、実際に運用してみると、着艦時に乱流が発生するうえ、艦橋に突っ込みそうになると不評だった。
ミッドウェー海戦で、赤城はアメリカ海軍空母「エンタープライズ」艦載機の急降下爆撃を受けて2発が命中、1発が至近弾となる。
命中した2発は1発目が中部エレベーター付近に命中し、飛行甲板を突き破って格納庫内で炸裂、2発目が後部甲板で炸裂し、舵も破壊した。
当時、赤城の飛行甲板上では上空警戒機の発艦準備中で、そのうち1機が発艦を終わったときだった。格納庫内には艦攻、艦爆全機があって攻撃準備中のため燃料を満載し、魚雷、爆弾を装備中だった。
中央部に命中した爆弾により、これらが誘爆を始め、赤城の致命傷となった。元が巡洋戦艦だったこともあってか、赤城はなかなか沈まず、しばらく燃えながら円を描き、12時過ぎには機関部が火災により全滅。
午後7時20分に赤城艦長青木泰二郎大佐は総員退去を命じ、ついで赤城の処分をすでに軽巡洋艦「長良」に退去していた南雲忠一第一航空艦隊司令長官に問い合わせるも、南雲長官からの返電よりもはやく、後方の主力部隊、旗艦「大和」に座乗していた山本五十六連合艦隊司令長官から「赤城の処分は待て」と命令が入る。
かつて山本長官は赤城の艦長を務めたことがあり、感情的に処分をためらったとの意見もあるが、現実は敵空襲の吸収が可能との判断からであった。
だが飛龍の喪失により、翌6日午前2時55分にミッドウェイ攻略中止命令を出し赤城の処分を命令。 また、このとき赤城を日本本土までもって帰ろうという大胆な意見もあったが、敵に拿捕される恐れがあったのでこの計画は没になった。
雷撃処分を任された第四駆逐隊の嵐、萩風、野分、舞風から各1本放たれた4本の魚雷のうち2ないし3本が命中し、1942年(昭和17年)6月6日午前2時、北緯30度30分、西経178度40分、赤城は艦尾から沈んでいった。ミッドウェー海戦時の赤城に乗り組んでいた実員は不明だが、赤城の定員は1,630名、第一航空艦隊司令部員が64名で、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名が戦死した。同海戦における赤城搭載機搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせて7名で、淵田中佐、板谷少佐、村田少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。

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補足情報:


1925年進水時は戦艦として進水(進水というのは船殻のみで、兵装艤装工事はされていない状態です。)

同型艦:

■ 天城(あまぎ)起工後関東大震災で大破のため未成のまま処分
赤城(あかぎ)1927年空母として竣工(呉海軍工廠)1942年ミッドウェー海戦で戦没

考証

バリエーション

使用部品

三段甲板

前期型




全通甲板

1941年真珠湾攻撃時


巡洋戦艦

88艦隊6番艦 巡洋戦艦 赤城


完成写真

HULL SCAPE 2012年 12月以降撮影の後アップ

製品所在


三段甲板:皇紀弐六七弐年(2012年)五月壱拾五日軍艦堂工廠第参渠ニテ起工
巡洋戦艦:皇紀弐六七弐年(2012年)七月壱拾六日軍艦堂工廠第弐渠ニテ起工
全通甲板:皇紀弐六七弐年(2012年)八月軍艦堂工廠第参渠ニテ起工予定

あとがき

 
あとがき

編集 鴣囃子裕二(タヌポンの工廠長)@軍艦堂 トップへ