概観諸元
分類:戦艦 クラス:ノースカロライナ級
艦番:BB-56
起工:1938(昭和13)年起工 竣工:1941(昭和16)年竣工
型式:ノースカロライナ級 艦番:2番艦
艦名:ワシントン 9代ワシントン
由来:州名 アメリカ合衆国42番目の州に因む
諸元:基準排水量:35,000トン 満載排水量:42,330トン
全長:222.11m 全幅:33.03m
竣工時兵装:45口径40.6センチ3連装砲×3
38口径12.7センチ連装砲×10
56口径40mm対空砲×60 70口径20mm対空砲36門
製作時兵装:45口径40.6センチ3連装砲×3
38口径12.7センチ連装砲×10
28mm4連装機銃×4 20mm単装機銃×59
搭載機:OS2Uキングフィッシャーx2
信号符字 November - India - Delta - Charly
概要
ワシントン (USS Washington, BB-56) はアメリカ海軍の戦艦。
ノースカロライナ級戦艦の2番艦。艦名はアメリカ合衆国42番目の州にちなむ。その名を持つ艦としては9隻目。
8代目は未完成に終わったコロラド級戦艦。
愛称はトムじいさん。
ワシントンは太平洋戦争を通じ日本海軍の攻撃で乗組員を失わなかった武運の強い艦である。
一方、イギリス派遣時には司令官が転落死し、1943年1月31日には戦艦インディアナの右舷三番砲塔付近に衝突し、衝突事故を起こして本国修理に1ヶ月を要した。この際は数人の水兵が死亡している。
ワシントンは1938年6月14日にフィラデルフィア海軍工廠で起工された。
1940年6月1日にヴァージニア・マーシャル(ジョン・マーシャルの直系の子孫)によって命名、進水した。
1941年5月15日にはフィラデルフィア海軍工廠内で就役し、艦長にハワード・H・J・ベンソンが就任した。日本の大和型戦艦と同じく、16インチ砲、自動砲撃管制装置、12万馬力28ノット発揮可能なタービンを搭載した新世代の戦艦だったが、パン焼き場の器材配置が悪く食事担当兵にとって働きにくいという些細な欠点もあった。だが、それ以上に深刻な欠陥が明らかとなった。全力公試で22ノットを出した瞬間、艦内のプロペラ軸に通じるスケッグが震動し、艦全体が大きく震動するトラブルに見舞われたのである。新しいスクリューに換装し、7月12日には28.5ノットを発揮したが、依然震動に悩まされた。その後ドッグ入りし、スクリューを調整して震動問題は一応の解決を見たが、ワシントンが28.5ノットを発揮することは二度となかった。
太平洋戦争が始まる1941年12月までワシントンはアメリカ東海岸沿いやメキシコ湾で整備と訓練を行った。
ワシントンと空母ホーネットは大西洋艦隊のジョン・W・ウィルコックス少将の指揮下に入り、ワシントンは第6戦艦部隊を編成し、旗艦となった。
1942年3月26日、ウィルコックス少将はイギリスに向かうため空母ワスプ、重巡洋艦ウィチタ、タスカルーサなどから構成される第39任務部隊を率いてポートランド(メイン州)を発った。しかし、ポートランドを発った翌日に人が荒れ狂う大西洋に落ちたと警報が鳴り、間もなくウィルコックス少将が行方不明であることが判明した。タスカルーサは救命ブイを投下し、天候が優れないにも関わらず空母ワスプから捜索のため航空機SBDドーントレスが発進して駆逐艦も捜索に加わった。駆逐艦ウィルソンの見張りが海面に目を落とすと、少し離れた距離の水中に少将を見つけたが、拾い上げることができなかった。旗艦のワシントンでは少将が海に落ちた原因について皆目わからず、一部の論者は心臓発作を起こしたか自殺したと考えた。
同27日12時28分にウィルコックス少将の捜索が中止され、次席指揮官であるロバート・C・ギフェン少将がウィチタを旗艦に任務部隊の指揮を引き継いだ。ドーントレス1機が着艦に失敗し、搭乗員は死亡した。
4月4日に任務部隊はオークニー諸島(スコットランド)のスカパ・フロー泊地に到着し、ジョン・トーヴィー大将率いるイギリス海軍、本国艦隊の指揮下に入った。
ワシントンは本国艦隊で演習と訓練に加わり、4月7日の演習では英国戦艦「デューク・オブ・ヨーク」と対空演習射撃を行った。第39任務部隊は第99任務部隊に再編される。
第99任務部隊は1942年4月28日にソビエト連邦のムルマンスクに向かう船団の護衛をするため出撃した。
5月1日にトライバル級駆逐艦パンジャブと戦艦キングジョージ5世が衝突した。パンシャブは真っ二つに分断された。ワシントンは船体が二つに折れたパンジャブとの衝突を回避すべく転舵したが、ワシントンの甲板に搭載されていた爆雷が水中に落ち、爆発した。
その間に2隻の駆逐艦がパンジャブ艦長、士官4名および182名の兵士を救助した。キングジョージ5世は修理のため駆逐艦マーチン、オリビに護衛されてスカパ・フローへ戻り、ワシントンと護衛艦艇は5月5日までその場に留まる。このとき第99任務部隊はアイスランドのクバルフィヨルド(Hvalfjördur) に向かい、クバルフィヨルドで補給艦ミザール(USS Mizar, AF-12)から食糧の供給を受けた。また潜水調査が行われたが、艦水線下に損傷なしという結果が得られ、一同を満足させた。クバルフィヨではアメリカ及びデンマークの高官がギフェン提督を表敬訪問し、5月12日に彼の旗艦に乗艦した。
第99任務部隊はその後本国艦隊と合流のため5月15日に編成替えが行われ、6月3日にスカパ・フローに戻る。翌日ヨーロッパ方面艦隊の司令官ハロルド・スターク提督がワシントンに乗艦、その司令官旗を掲揚し、ワシントンには臨時司令部が置かれた。
6月7日にはキングジョージ6世がワシントンを視察した。
スターク提督が艦を離れた後、ワシントンはソ連の港に通じる北極海の航路を哨戒した。7月にはビスマルク級戦艦ティルピッツが輸送船団PQ-17を攻撃するため出撃する可能性があったが、結局ワシントンとティルピッツが交戦することはなかった。PQ-17船団は33隻のうち22隻が空襲とUボートの攻撃で沈没し、米国はワシントンを有効に活用できないイギリスに失望した。
7月14日にギフェン少将は旗艦をウィチタへ移し、ワシントンは駆逐艦ウェインラント、メイラント、リンドを伴ってアイスランドを離れた。
7月21日、ワシントンはニューヨークのグレーヴズエンドに到着し、オーバーホールのため2日後にニューヨーク海軍工廠へ入渠した。
1942年8月初旬、米軍は「見張り塔」作戦を発動し、第一海兵師団がガダルカナル、ツラギ島、フロリダ島を占領した。日本軍は即座に反応した。第一次ソロモン海戦を筆頭に海戦が頻発し、「鉄底海峡(アイアンボトム海峡)」と両軍が呼ぶほどの激戦が繰り広げられた。
8月29日、ワシントンはパナマ運河を通って太平洋に進出した。
9月13日、トンガ諸島トンガタブ、ヌクアロファ錨地に投錨。
10月7日、巡洋艦アトランタ、駆逐艦ベンハム、ウォークと共にガダルカナル島へ赴く。
10月27日、伊-15号潜水艦から雷撃を受けたが回避に成功。
10月30日、仏領ニューカレドニア首都ヌメア、ダンビア湾に停泊した。
11月11日、ワシントンはダンビア湾を出港し、空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタ、重巡洋艦ノーザンプトン、軽巡洋艦サンディエゴ、駆逐艦8隻と、日本軍の輸送船団「東京急行」を迎撃するために出動した。サウスダコタには”艦隊の疫病神”という評判が立っていた。
11月13日、阿部弘毅少将率いる第三戦隊、第四水雷戦隊、第十水雷戦隊から編成された第三艦隊前進部隊と、ダニエル・キャラガン少将率いる第67機動部隊第4群の巡洋艦部隊が交戦。日本側は戦艦比叡を失い、米軍はキャラガン少将が戦死し、相撃ちに近い形で海戦は終わった。戦略的には、ガダルカナル島ヘンダーソン基地砲撃を阻止したという意味で米軍の勝利である。
11月14日、ヘンダーソン基地から発進した急降下爆撃機と、エンタープライズ艦載機が日本軍艦隊を発見し、巡洋艦衣笠撃沈、摩耶・五十鈴大破という戦果をあげる。田中頼三少将率いる輸送船団も6隻を失った。日本軍は大損害を受けたが、戦艦霧島を中心に部隊を再編し、再びガダルカナル島砲撃を企図した。
米軍は潜水艦トラウトの情報から近藤中将率いる艦隊の南下を察知し、第64機動部隊からワシントン、戦艦サウスダコタ、駆逐艦ウォーク、ベンハム、プレストン、グインを分離させ、鉄底海峡に配備した。
11月14日深夜、ワシントンはサウスダコタとともにガダルカナル島砲撃のために接近してきた日本海軍艦艇を待ち伏せ、23時17分に軽巡洋艦川内に対して最初の砲撃を行った。この砲撃は命中しなかった。日本軍の砲撃によりサウスダコタが大破する中、ワシントンは戦艦霧島とサウスダコタの区別をつけかねていた。霧島が探照灯をつけたことで日本軍と判断し、午前零時から主砲75発を発射。霧島に9発の命中弾を与え、撃沈している(第三次ソロモン海戦)。これは太平洋戦争における初の戦艦同士の砲戦であった。また重巡洋艦や駆逐艦からの魚雷攻撃を受けるが、信管が過敏に設定されていた為、ワシントンの艦首波によって魚雷が自爆してしまい、命中しなかった。ワシントンは「勇敢で熟練した操艦技術」で魚雷回避に成功したと報告している。この夜戦でワシントンの受けた損傷は、艦橋に5インチ砲1発が命中したのみだった。
ワシントンとサウスダコタはダンビア湾で修理を行った。ここで「ワシントンはサウスダコタを見殺しにして逃げた」という噂が広まり、留置場が一杯になる程の喧嘩が繰り広げられた。サウスダコタの艦長は本国に戻ると「1943年5月サタデー・イブニング・ポスト」誌でサウスダコタの活躍を誇張し、ワシントンが逃走したと宣伝したので、両艦乗組員の間に戦後にまで禍根を残した。
戦艦同士の砲撃戦が終わると、ワシントンは対空・対地砲撃に活躍するようになる。マリアナ沖海戦では撤退する日本艦隊の追撃命令がワシントンに下され、誰もが「大和」のことを噂したという。しかし「大和」との砲戦のチャンスはなかった。
1944年9月にワシントンはその主砲でパラオのペリリュー州、アンガウル州に対する艦砲射撃を行い、10月10日には沖縄攻撃(十・十空襲)を行う空母部隊の支援を行った。
10月11日から14日までルソン島北部および台湾に対する攻撃を行い、21日にはヴィサヤ諸島への空襲支援に参加している。レイテ沖海戦ではハルゼーの命令に従って小沢機動部隊を追撃し、「大和」との決戦を望んでいたワシントン将兵は落胆した。また戦艦伊勢と日向まで42kmの地点まで接近していたが、南に引き返した。
1944年11月5日から1945年2月17日までワシントンは高速空母機動部隊の護衛として琉球諸島、台湾、ルソン島、カムラン湾、仏領インドシナのサイゴン、香港、広東、海南島、南西諸島、そして日本の首都である東京への攻撃に参加した。
1945年2月19日から22日までワシントンは硫黄島への上陸部隊支援として艦砲射撃を行った。その16インチ主砲と5インチ副砲による砲撃は硫黄島の日本軍拠点、砲兵陣地および将兵を撃破した。
2月23日から3月16日まで硫黄島での支援活動を行い、2月25日には東京に対する空襲を行う空母の護衛を行った。
3月18日、3月19日および3月29日には本州の航空基地を含む重要拠点に対する空襲を行う空母部隊の護衛を務め、3月24日におよび4月19日には沖縄島の日本軍に対する砲撃を行っている。
絶え間なく続いた任務の後、1945年6月1日にレイテ島サンペドロ湾に錨泊したワシントンは6月6日にピュージェット・サウンド海軍工廠にむけて出航する。途中グアムと真珠湾に立ち寄り、ピュージェット・サウンドに到着したのは6月28日のことであった。
結局ワシントンは太平洋戦線の前線に再び参加することはなかった。ワシントンの最後の軍役は8月中旬の東京湾での活動及び9月2日の降伏調印式への参加であった。その後カリフォルニア州サンペドロで修理後の公試を行い、パナマ運河を通過して大西洋に戻る。
10月6日にフレデリック・C・シャーマン中将率いる11.6任務群に加わり、10月17日にフィラデルフィア海軍造船所に到着、10月27日に海軍記念式典に参加した。
1945年11月2日、マジック・カーペット作戦の一環として陸上部隊の輸送に駆りだされることになり、その日から造船所で寝台の増設を行った。工事は11月15日に完了し、乗組員の構成は士官84名、水兵835名まで減らした。ワシントンは11月16日にイギリスへ向けて出発し、11月22日にサウザンプトンに到着した。
その後、陸軍の士官185名と下士官兵1,479名をニューヨークに輸送した。ワシントンは輸送任務を終えると1947年6月27日に予備役入りとなり、大西洋予備役艦隊のニューヨーク部隊に加わり、1960年6月1日には海軍籍から除籍された。
1961年5月24日に売却、解体された。
ワシントンはノルウェー沖の北極海での活動を始め、太平洋の南から西まで駆け回った。第二次世界大戦中、13個の従軍星章を授与された。
Wikiより抜粋
- ノースカロライナ(BB-55)1941年竣工(ニューヨーク海軍工廠)1960年退役。
考証
デッキブルー塗装は1942夏以前は主砲塔副砲塔などの上面はデッキブルーでは無かった模様。但し、太平洋戦線投入時の1942夏以降は同箇所はデッキブルー塗装となる。
使用部品
- Confidential
製作工程 1942
製作開始 1942秋
- 製作開始
すでに一部製作は昨日2012/1/25日に開始していましたが、写真アップは本日となりました。
写真には邪道のフルハルが写ってますが、ボッキリ折っておいた後の写真ですw
この後この艦底は、ヒートペンで第二の人生を送ることになります。
キット自体はさすがに最新のトランペッターな感じ(ピットロード製ですが、製造はトランペッターです。)で好印象です。バリはありますが、それを差し引いてもあまりあるハイモールドなキットです。
ただし、国内メーカーと異なり、相当に離型材が残ってて塗料をはじきますので、アルコールで拭いたり、界面活性剤で洗浄をお奨めします。
船体から製作です。船体は左舷艦首部分にワシントンは一段落ちた機銃座がある為、そこの部分を甲板形状に合せてカットしておきます。
定番の鋼板継ぎ目の再現は2.5mmマスキングテープを用いて行います。
この艦は、艦首部分に向けてラッパ上に鋼板が広くなっているので、艦首へは多少せり上がる感じで張って行きます。
この2日間で船体にかかりっきりでした。あと2日間この作業が続きます。塗装に向けて、艦底を接合して、溶きパテで調整しました。
完全乾燥を待つ間、明日以降の甲板上擬装小物など作成しておきます。
乾燥が終了しましたので、パテ修正部分をカンナがけ等で修正した後、塗装に入ります。
塗装はデッキブルーから行います。これは、私の場合、インターミディエイトブルー、ネイビーブルー、マットブラック、レッドをある特定の割合で混色して、作り置きしてあります。
艦底のマットブラック>1mmマスキングテープでのマスク>ネイビーブルー>マスク>FS36375塗装と行って行きます。
船体塗装完成です。甲板上のモールドは都度レタッチを行います。中央部甲板のセルター壁は別パーツなので塗装の必要は無かったり、通風筒も別パーツになっているため、非常によく考えられているキットになってます。しかも、舷窓もなんと庇付き、開口済と良いことずくめです。多少、原型制作時の削り後がそのままなのが玉に瑕です。
デッキブルーのマスキング中に5インチ連装砲10基の製作です。砲塔自体のパーティングラインが酷いため、結構時間を取られてしまいました。
主砲は側面モールドがしっかりしてある代わりに、別パーツとなりますので、合わせ目をパテ修正します。
主砲も5インチ連装砲も頂部は1942年夏以降の写真は確認出来る資料ではデッキブルーですので後程、塗装します。ちなみに、夏以前は船体色と同色でした。つまり、今回製作の1942では、どちらでも良いのですが、やはり、太平洋戦線を想定するなら秋以降ですので、デッキブルーです。
艦橋作業です。
基部から組上げて塗装順などのあたりを見て、エッチング交換する部分を交換します。救命ボートはX社のレジン製救命ボートと固定金具を使用します。
雷雨バスケット、水密ドアも交換します。余談ですが、水密ドアは右舷左舷で開く方向が異なります。
火器制御機器もエッチング交換、28mm4連装もキットではやはり心許ないので、エッチングに交換です。ライオンロア製に比べて強度があり、かつ、折りやすく、極めて製作しやすいパーツです。
デッキブルーを塗装したら、下部から順に組上げつつ、マスクを施していきます。
塗装に問題がある場合は、組まずに、グレーFS36375を塗装してから、組みます。
塗装が完了したら、組上げて、別パーツで用意した28mm4連装機銃、火器制御機器、手摺など設置します。手摺は、基本取付けてマスクしますが、一部困難な部分は後付けします。
5"連装砲の塗装を行い、船体も同様にマスクして砲塔周りをグレーFS36375で塗装します。
塗装が完了したら、事前に作成しておいた艤装品類、先程の5インチ連装砲を船体に設置します。
艦橋作業継続ですが、Mk37を作成します。他の箇所にも使用するため。合計4個作成ですが、今日は下ごしらえだけで、完成させるのは1個で。
エッチングが、少々高度な加工を必要とするため、気持ちが1個で終わっちゃったんです。(;^ω^)
艦橋の装甲櫓は普通の梯子では無く、全て、ハンギングラダーを使用しました。水密ドアと、パテ修正も忘れずに。
そして、1個で良かった!Mk38極悪エッチング!(製品が悪いって意味じゃ無いですよ)
14本(だったとおもいます)の糸ほどの索を等間隔に織っていき、穴の開いた板をその全ての索を通して、箱の中に収める形にして、中央の6本はその箱を抱きかかえるようにコの字に折る。
多分、今までの人生で、2度と作りたくないエッチングは何?ランキング堂々1位です。
それに反して、レーダーはIJN21号電探に比べ、( ゚,_・・゚)ブブブッ 1回折るだけで完成です。
Mk37も、パテが乾燥したので、丁寧にヤスって、上部のエッチング取付けます。これも1cm程なのに、4点の部品で構成されています。そのなかでも、3字にカーブした中板が高難易度です。
完成したパーツは既にに完成している、艦橋下部に取り付けて行きます。地味に手摺はパーツが無いので、X社の米海軍艦艇手摺セットを使用、探照燈も交換しています。ちなみに手摺は大嫌いなステンレス製では無く大好きな真鍮製です。完成後に後部のアールの着いた張出し甲板(階段のアクセス甲板)の手摺設置と、信号桁を交換するのを忘れていたので、忘れずに交換します。
中央構造物続いては、第壱煙突です。周囲のMk37射撃式装置をここで2基@1基で終わりです。
手摺や、機銃(Oerlikon20mm単装)、4連装機銃を用意します。4連装機銃は28mm対空4連装機銃です。
単装機銃完成で、主砲塔が完成したので、ここで搭載します。同時に、第壱煙突も擬装、兵装類を載せて完成させます。
船体に艦橋を接合します。先日の桁交換と、ラッタル張出し甲板部分の手摺をここで、同時に準備していたのでそれを取付けます。艦橋が載るといよいよ舟らしくなってきました。
第壱煙突も完成しているので接合します。ここは事前にすり合せや、基部を均しておかないと載らない事があるので、注意です。艦橋部は甲板部とのアクセス用のラッタルをここで取付けます。
個々まで来たら本格的に舟っぽくなります。しかし、この時代(第二次大戦)の艦船なのに、既に現代艦船の様相を呈しているのがさすがだなぁ。
ご存じの方もいらっしゃるかとは思いますが、空母に至っては第二次大戦時に活躍した空母を改装して、あの斜め着艦甲板を持った原子力空母の様な形状の空母を、私が生まれた頃、現役で運用していたのですから。
エセックス、タイコンテロガ、なんてのがそうです。
最後の中央構造物第弐煙突ユニットの製作です。両舷にあるクレーンから製作します。エッチングはトラス構造部分のみとなりますので、ポスト側の受け滑車、索を設置します。
その他の艤装品も用意します。Mk.37/Mk.38つつがなく終了です。単装機銃は、これから甲板仕上げに入るので、ここからが、正念場になります。(数的な意味でw)
後檣は、同じ長さに切り出した0.8mm真鍮線を、チャックに挟んで(痛そう)回しながら丁寧にヤスって先端を痩せさせていきます。キットは前檣後檣同じ長さの桁を使用していますが、前檣が長く、後檣を短いものにします。
塗装して組み上がったら、最後に手摺を用意して、事前にエア吹きして。各部に設置してやります。
カタパルト2基を製作して塗装して、船体の完成です。ここで、艦首側と、艦尾側の写真を撮影です。
この後、キングフィッシャー1機と、甲板前部側からの最終仕上げを行って行きます。
最後にヤマ場が来ようとはw各所3基とか4基とか、だったので、破損防止もかねて、あとで、まとめて製作を予定していた単装機銃ですが、52基ありました(;´∀`)。
日本軍単装機銃の遙かに複雑な工程が待ってました。
忘備録:単装機銃本体を切り出したら、肩当て部分を下から織り上げて、重ねて、付け根から左右にわずかばかり開く、台座の三脚のうち、2脚を織り曲げて、ハの字にした後、最後の1本を適度な位置でくの字に折り曲げて先程の2脚と接合させる。照星をLの字の位置に90°折り曲げて正面へ向ける。盾を切り出す。切り出したら正面を下にして、左右の支柱を先ず、上から見て盾を含めてコの字に曲げる。その後、片側から支柱の分岐部分の付け根をピンセットではさみ、中央側へテンションをかけて、たたみ込むように倒す。その際、支柱はコの字に並行を保つ。もう片側も同様に、作業を行う。この段階で、中央にわずかな隙間のある。Tの字の形状へと変化している。そのT次の先端に瞬接を付けて、機銃砲身下側から照星付け根後あたりめがけて、盾を挿入して固定する。
以上で1基完成です。これを52回繰り返します。
実は、次回予定が、空母エセックスなのですが。そちらは53基あります。さらに、4連装ボフォースが8基!計画的に製作しましょう。
私の場合、アニメのブリーチとCSIマイアミ見ながら、楽しく作業できました。多分、都度作業だと、そんなに負担にはならないと思いますよ。
途中で、休憩がてら、短艇群とかわせみの製作設置も行いました。短艇は、キムワイプ細切れを載せてアクセントと、固定帯、支索の再現。かわせみはプロペラ、フロート支柱、前後キャノピー、エンジン放熱板、カタパルト射出台(US後期型)(てか、なんでこれが純正エッチングについて無いんだろ?)をエッチングで、そして、カタパルト状の設置時に張る固定索をフロートからカタパルトへ、尾翼下からカタパルトへそれzそれ張ります。
機銃の完成です。塗装後、各所へ設置します。この段階で、微妙な曲がりやゆがみを修整してやります。
ウェザリングを施して、乾燥後、トップコート、最後に張り線で完成です。
完成写真
HULL SCAPE
ZOOM UP
WATERLINE VIEW
- 撮影環境
- ミニクリプトン球(電球色)6燈直射による自作撮影ブース
- 撮影に使用したカメラなどの機材
- Nikon D90, Nikon AF-S NIKKOR 24-85mm, Nikon AF-S NIKKOR 18-55mm, Kenko CLOSE-UP Lens f330 52mm, SLIK三脚
- 撮影時のカメラの設定値
- F-18, NOFLASH, ISO100-1400, 露出補正+1.7
製品所在
2012年1月軍艦堂工廠第弐渠にて起工 同年同月竣工
あとがき
霧島の天敵だった?かな?日本軍との戦闘で一人の死亡者も出してない艦なのに、確か、階段から滑って犠牲者を出した艦だったかな?
第二次世界大戦の艦船とは思えぬモダンな戦艦です。ローマの方がモダンかな。
次はエセックスです。