概観諸元

分類:重巡洋艦 クラス:1等巡洋艦
起工:1927(昭和2)年起工 竣工:1932(昭和7)年竣工
型式:高雄型 艦番:1番艦
艦名:高雄 4代高雄 初代:運輸船高雄丸 2代:巡洋艦高雄(旧) 3代:天城型戦艦高雄(未成)
諸元:基準排水量:13,400トン(改装後) 公試排水量:14,894トン
全長:203.76m 全幅:20.73m

概要

高雄型重巡洋艦(たかおがたじゅうじゅんようかん)は大日本帝国海軍の重巡洋艦。同型艦は4隻。昭和2年度艦艇補充計画に基づき建造された。
高雄型は書類上では日本で最後の一等巡洋艦として計画建造された型でもあり、この型以降に建造された巡洋艦型はすべて二等巡洋艦(軽巡洋艦)である。なお、同時に起工した二番艦の愛宕の方が1932年3月竣工と先になっている。 基本計画主任であった、平賀譲造船大佐が「妙高」の設計を最後に海外へ出張したため、あとを継いだ藤本喜久雄大佐が担当した1万トン級の重巡洋艦。妙高型の攻撃力を維持し、妙高型の問題点であった狭小な居住区画や戦艦に次ぐ準主力艦として、高い艦隊指揮能力を付加すべく塔型艦橋を大型化させた。もっとも、艦橋は防御区画を短縮するために煙突の煙路の上に艦橋が載っているというレイアウト上の理由で大型化している面も大きい。艦橋のレイアウトは下から下部艦橋、中部艦橋の両脇に機銃台、上部艦橋の両脇には1.5m測距儀が1基ずつ、羅針艦橋、防空指揮所、測的所の天蓋には主砲用一四式射撃方位盤があり、その後ろに主砲用6m測距儀が乗ると言う配置である。 妙高型との相違点は他にも魚雷発射管が被弾時の被害拡大の恐れがある中甲板から、使い勝手の良い上甲板に移されたのも特徴である。しかし第四艦隊事件を機に高雄と愛宕は大型化しすぎた艦上構造物の縮小工事を行い若干重心を下げている。しかし、速力や安定性等でやや妙高型に劣った。
高雄(たかお)は、日本海軍の重巡洋艦。高雄型の1番艦である。横須賀海軍工廠にて起工。艦名は京都府の高雄山に因んで命名された。
高雄は1930年5月12日に進水。進水式には香淳皇后が臨席し、式典の模様はラジオで実況された。就役後は第2艦隊第4戦隊に所属する。 1933年8月26日には横浜沖で行われた特別大演習での観艦式に、昭和天皇が乗艦する戦艦「比叡」の供奉艦として参列した。1937年の日中戦争開始後には上海上陸作戦等を支援し、その後旅順から華北方面で活動する。 1938年には近代化改修に入り、翌1939年に工事が完了している。 1941年の太平洋戦争開戦時の艦長は朝倉豊次大佐。近藤信竹中将麾下の第4戦隊に所属し、フィリピン、ルソン島のリンガエン湾上陸作戦の支援にあたる。 1942年の初頭はジャワ海で作戦に従事し、3月1日、高雄の水偵がオランダ商船Engganoを爆撃。翌2日夜、高雄と愛宕は米駆逐艦「ピルズバリー」 (USS Pillsbury, DD-227) を撃沈。3月4日に高雄、愛宕、摩耶と第4駆逐隊の駆逐艦2隻、「嵐」と「野分」がチラチャップ近くで船団を攻撃、タンカーFrancol、depot ship Anking、掃海艇1隻を沈めオランダの貨物船2隻を捕獲し護衛のオーストラリアのスループYarraも撃沈した。 5月末から6月にかけてアリューシャン作戦に参加。8月にはカ号作戦に参加、8月24日第二次ソロモン海戦、10月26日南太平洋海戦参加。11月15日第三次ソロモン海戦に参加。 1943年2月、ガダルカナル島からの撤退を支援。その後艦長は猪口敏平大佐にかわり、トラックを拠点に中部太平洋で活動した。1943年11月5日、ラバウルに進出したがそこで米空母機による攻撃を受ける。高雄は重油補給中に命中弾2発を受け、このうち1発が1番砲塔と2番砲塔の間に命中。たまたま一番砲塔の扉が開いており、爆風で炸薬が引火した結果、戦死者23名を出した。高雄は横須賀に戻り修理を行った。 1944年(昭和19年)6月19日、マリアナ沖海戦に参加。前衛部隊として戦艦大和と共に戦った。この時、甲部隊(小沢艦隊)から発進した日本軍攻撃隊を敵編隊と間違え、右舷高射砲で誤射している。この事故で数機が墜落した。 10月22日、栗田健男中将指揮の第一遊撃部隊に属しレイテ湾に向けてブルネイを出撃した。10月23日、パラワン島沖を航行中6の時34分、高雄に米潜水艦「ダーター」 (USS Darter, SS-227) の放った魚雷2本が右舷魚雷発射管真下と艦尾に命中した。高雄は戦死者32名を出し、第三・第四罐室を破壊され、外軸スクリューも失って大破。洋上に停止した。真水タンクも破損し、海水を蒸留して水を作って罐を焚いたため、高雄が3ノット発揮可能になったのは午後9時であった。高雄はダーターの追撃を受けたが海軍機の援護によってダーターは座礁して自沈。10月25日、駆逐艦「長波」、「朝霜」、水雷艇「鵯」に護衛され無事ブルネイに到着した。(参考レイテ沖海戦) 11月8日、駆逐艦「清霜」に護衛されてブルネイを出発し、11月8日にシンガポールに到着。 1945年1月11日、B-29 を主砲と高角砲で迎撃し、主砲37発、高角砲481発を消費。B-29 1機を撃墜した。本土に戻るために修理が行われたが、シンガポール防衛のために同港残留が決定される。高雄は損傷した艦尾を切断し、応急防水措置を施した状態で投錨した。この時、出撃可能な状態に見せかけるため、艦尾を椰子の葉で覆っている。大部分の乗組員は臨時陸戦隊員となり、機銃は付近の陸上陣地に移動された。 1945年7月31日、シンガポールのセレター港でイアン・エドワード・フレーザー大尉率いるイギリス小型潜水艇「XE3」と、同行した潜水隊員ジェームズ・ジョセフ・マグニスによって仕掛けられたリムペットマイン(吸着式時限機雷)が第三砲塔右舷艦底で爆発した。幅3m、長さ8mの亀裂が生じ、下部電信室と主砲発令所が浸水したが、損害は軽微だった。高雄工作科の乗組員が潜水調査したところ、4個のうち1つしか起爆していない爆薬が発見された。 戦後はイギリスに引渡された。10月27日にイギリス海軍によってマラッカ海峡に牽引され、10月29日に艦底に爆薬を設置。午後6時30分に爆薬に点火したのち、巡洋艦「ニューファンドランド」 (HMS Newfoundland, C59) の砲撃によって午後6時38分、艦尾から沈没した。

Wikiより抜粋

同型艦:

使用部品

製作工程

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完成写真

HULL SCAPE

ZOOM UP

 



撮影環境
ミニクリプトン球(電球色)4燈直射による自作撮影ブース
撮影に使用したカメラなどの機材
Nikon D40X, Nikon AF-S NIKKOR 24-85mm, Nikon AF-S NIKKOR 18-55mm, Kenko CLOSE-UP Lens f330 52mm, SLIK三脚
撮影時のカメラの設定値
F-18, NOFLASH, ISO100-1400, 露出補正+1.7

製品所在

2隻同時製作
艦番1: 
艦番2: 

展示箇所はこちら

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あとがき

 

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