概観諸元

分類:航空母艦 クラス:改装空母
起工:1940(昭和15)年起工 竣工:1944(昭和19)年竣工
型式:単独型 艦番:1番艦
艦名:信濃 初代信濃
諸元:基準排水量:62,000トン 公試排水量:68,060トン 満載排水量:71,890トン
全長:266.1m 全幅:40m

概要

信濃(しなの)は、かつて大日本帝国海軍に所属した航空母艦である。建造中の大和型戦艦三番艦を戦局の変化に伴い、戦艦から航空母艦に設計変更したものである。艦名は現中部地方の一部旧国名の信濃国から採られている。
1944年、艤装工作のため兵装の無いまま呉へ回航中、未完成のまま米潜水艦の雷撃を受け、一度も実戦に使用されることなく沈没した。1961年にアメリカ海軍の原子力空母であるエンタープライズが登場するまでは、史上最大の排水量を持つ空母であった。また同時に信濃の艦歴は、世界の海軍史上最も短いものとなった。かつ、信濃は潜水艦が撃沈した最も巨大な船である。
空母として改装されたが、仮にレイテ沖海戦に参戦できていても信濃に乗せる航空機はすでになかったのが現実である(雲龍なども完成したが載せる航空機がなかったので輸送船として使用された)。また横浜を出航した時点でも本艦は未完成なこと甚だしくとても参戦どころか訓練への参加も無理な状態であった。東京湾内での航空公試で横須賀航空隊により局地戦闘機紫電改を艦上型に改造した機体や流星、彩雲等による発着艦実験が行われ、成功を収めている。これが信濃で航空機が発着艦を行った唯一の事例であった。それらの結果から、紫電改や流星・彩雲などの洋上基地として活用を期待され、11月28日、残された艤装や兵装の搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるため、呉海軍工廠へ回航すべく出港することとなる。
信濃の内部では建造工事が続けられており、高角砲、機銃はほとんど搭載されておらず、機関も12基ある缶(ボイラー)の内8基しか完成しておらず、前述した出せる速力も20ノットという状態であった。呉海軍工廠へ回航に際して、航空機は搭載されなかったが、代わりに特攻機の桜花を貨物として搭載した。東京湾を出てまもなく、アーチャーフィッシュ に発見される。信濃は全速の20ノットで航行しており、攻撃は困難であったが数時間に渡る追従の結果、之字運動の関係で信濃が突如転進し、皮肉にも好発射点につくことができた。浜名湖南方176kmにて魚雷を発射。日本側は雷撃を受けるまでアーチャーフィッシュの存在を確認できなかった。命中した魚雷は4発。命中深度を浅く設定された魚雷は、信濃のコンクリートが充填されたバルジより浅い部分に命中した。命中後も信濃は速力を落とさず20ノットで現場から退避したため、追撃を行うことは出来なかった。随伴駆逐艦から爆雷も投下されたが、あてずっぽうの投下であかった。信濃は未だ建造中だったため、通路にはケーブル類が多数放置されており、防水ハッチを閉めることができないなど、防水作業に支障があった。また閉めることが出来た防水ハッチも、隙間から空気が漏れてくる有様だった。信濃はただちに陸地に向かうことはせず、とりあえず大阪を目指すこととなったが、浸水が留まるところを知らず次第に傾斜が増大。復水器が使用できなくなりボイラー用の真水が欠乏したため、洋上で機関停止するに至った。駆逐艦による曳航が実施され、駆逐艦の後部高角砲に曳航用ロープをグルグル巻きにして牽引したが、ロープが切れてしまい、断念せざるをえなかった。ここに至り初めて事の重大性を認識した艦長であったが、時既に遅く、被雷してから7時間もの時間があったにもかかわらず、名古屋への退避や乗員の駆逐艦への移乗、救援の要請はされなかった。同日午前10時57分、潮岬沖南東48kmの地点で信濃は転覆し、艦尾から沈没した。攻撃そのものでは、殆ど死傷者を出さなかったにもかかわらず、多数の乗員が水死することとなった。阿部俊雄艦長も信濃と運命を共にした。大まかな沈没点は確認されているが、現場が6000 - 7000メートルの深海のため信濃の船体は未だ発見されていない。沈没時には雲龍のように搭載した特攻兵器は誘爆せず、大和や武蔵のような爆発もなかったので、もし信濃が発見されれば、比較的原型を留めた状態で大和型の船体を見られる可能性がある。
沈没の原因としては建造の練度不足のため十分な防水作業も出来ず、艦搭乗員も内部に精通したものが皆無で、被弾後に対しても艦内は突然の事態に混乱し、右往左往するばかりで、満足に応急処置すら行えない状況であったためによる。また傾斜によって注排水弁が海中から上がってしまい、追加の注水が出来なかったのではという推論もなされている(反対意見あり)。突貫工事による影響で、ねじ山が根元まで切られていないボルトや2cmも隙間の空く防水ハッチなど、竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に魚雷命中の時点で沈没が確定されていたといってよい惨状だった。
アーチャーフィッシュが1961年までの世界最大の空母を撃沈したと知るのは、戦後のことである。

Wikiより抜粋

同型艦:

使用部品

製作工程

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完成写真

HULL SCAPE

ZOOM UP

 



撮影環境
ミニクリプトン球(電球色)4燈直射による自作撮影ブース
撮影に使用したカメラなどの機材
Nikon D40X, Nikon AF-S NIKKOR 24-85mm, Nikon AF-S NIKKOR 18-55mm, Kenko CLOSE-UP Lens f330 52mm, SLIK三脚
撮影時のカメラの設定値
F-18, NOFLASH, ISO100-1400, 露出補正+1.7

製品所在

2隻同時製作
艦番1: 
艦番2: 

展示箇所はこちら

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あとがき

 

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