概観諸元

分類:戦闘機 クラス:戦闘
機体略号:キ84(試作名称)
運用開始:1944(昭和19)年
名称:四式戦闘機(よんしきせんとうき)
型式:一型
製造:中島飛行機
全長:9.92m 全幅:11.24m  全高:3.38m 自重:2,698kg
兵装:

機首
12.7mm機関砲 ホ103×2(700発)
翼内 20mm機関砲 ホ5×2(300発)
後方旋回 -
側方旋回 -
胴体 -
翼下 最大500kg爆弾(250kg爆弾×2)

乗員:1名
エンジン:誉二一型 (ハ45-21,NK9H) 1,825hp
最高速度:655km/h
航続距離:1,400km (増槽あり2,500km)
上昇限度:12,400m
コードネーム:Frank (フランク・マッコイ陸軍大佐が、優れた性能を持つ敵機に自らの名を呈上したもの
)

概要

四式戦闘機(よんしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。
キ番号(試作名称)はキ84。愛称は疾風(はやて)。呼称・略称は四式戦、四戦、ハチヨン、大東亜決戦機など。
連合軍のコードネームはFrank(フランク)。開発・製造は中島飛行機。
九七式戦闘機(キ27)、一式戦闘機「隼」(キ43)、二式単座戦闘機「鍾馗」(キ44)と続いた、小山悌技師を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっており、速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性・生産性のバランスが取れた傑作機であった。
624km/hという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速であった(キ84-I乙試作機が試験飛行の際に660km/hを記録したとされ、アメリカ軍のテストでは680km/h代後半を記録している)。
四式重爆撃機「飛龍」(キ67)と共に重点生産機に指定され、総生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、1944年(昭和19年)中頃という太平洋戦争(大東亜戦争)後期登場の機体ながらも、日本軍戦闘機としては零戦、一式戦に次ぐ約3,500機に及んだ。
帝国陸軍から早くから「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として大いに期待され、大戦後期の主力戦闘機として多数機が各飛行戦隊といった第一級線の実戦部隊に配属され参戦し、対戦したアメリカ軍からも「The best Japanese fighter(日本最優秀戦闘機、日本最良戦闘機)」と評価された名機だが、搭載した新型エンジン・ハ45(海軍名・誉)の不調や、潤滑油・ガソリン(オクタン価)の品質低下、点火プラグ・電気コードといった部品の不良・不足、整備力の低下などにより全体的に稼働率が低く、また、スペック通りの最高性能を出すのが難しかったため、大戦後半に登場した陸海軍機の多くと同様、評価の分かれる機体である。
コードネーム
本機に付けられた連合軍のコードネーム「Frank(フランク)」の由来は、当時フィリピンで鹵獲した当機をテストしたチームの長、フランク・マッコイ陸軍大佐が、優れた性能を持つ敵機に自らの名を呈上したものだと伝えられる。
彼はコードネームを付与する部門の責任者でもあり、自分の名前を有力な戦闘機に付けたいと願い、一旦「三菱陸軍零式単座双発戦闘機(Mitsubushi Army Type 0 Single-seat Twin-engine Fighter.」(架空の機体)に与えたが、のちにそれを取り上げて四式戦に割り当てた、ということになっている。「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」には代わりに「Harry(ハリー)」という名が与えられたという。
四式戦「疾風」を最初に装備した実戦部隊は1944年3月1日付編成の飛行第22戦隊で、垂直尾翼に描く部隊マークを菊水紋とした同戦隊は四式戦の実戦テストも兼ねたものであり、使用機体はキ84増加試作機を、幹部空中勤務者・地上勤務者は主に航空審査部から精鋭を抽出となり、戦隊長はキ84審査主任を務め当機を熟知していたテスト・パイロットであり、ノモンハン事件からのエース・パイロットでもあった岩橋譲三少佐、整備隊長は同じくキ84班整備班長として長く携わっていた中村考大尉の両名が任命された。
現存機
アメリカ軍がテストに使用し、レストアされた四式戦が現在鹿児島県知覧の知覧特攻平和会館に展示されている。
この保存機は当初は飛行可能であり、1973年(昭和48年)の入間基地への里帰り当時は華麗な飛行でファンの目を楽しませた。その後、本機は栃木県宇都宮市の日本人オーナーに買い取られ、オーナーの死後は京都の嵐山美術館に売却され同地で展示される事となるが、劣悪な管理状況により飛行不能となった。
本機を日本へ譲渡したアメリカの私設航空博物館のドン・ライキンスはこの状況を聞いて譲渡したことを深く悔いており、その後も復元を行ったマロニー博物館では、他の機体数機との交換で良いので還して欲しいとコメントしている。
飛行不能となった要因については「ずさんな野外展示が行われ、元々機体から容易にはずせない部品を強引に取る盗難にあった」、「嵐山美術館閉館伴い南紀白浜に移転し、海岸そばでの展示のため零戦六三型と同じく機体の腐食やエンジンの悪化が進んだ」などである。
嵐山美術館時代は容易に取れる部品に関しては初めからはずして展示されていたが前述のように盗難被害に遭った。
「輸送のために機体をガスで切断した」といわれているが誤認であり、正規の方法で分解されてから輸送されている。
知覧特攻平和会館展示の三式戦二型や、靖国神社遊就館の彗星などの保存機(いずれも一度ガス切断されている)と混同されている可能性がある。

Wikiより抜粋

補足情報:

アメリカ全軍第二位のエース(38機撃墜)であるトーマス・マクガイア陸軍少佐のP-38を撃墜している。

系列機:

使用部品

1945

飛行第51戦隊 戦隊長 池田忠雄大尉 乗機 茨城県 下館飛行場

  1. 製作工程




    今回製作するのは ハセガワ 1/72 中島 キ84 四式戦闘機 疾風 です。Frankの名で海外では知られ、最高の日本軍機と称された機体です。
    国産キットということもあり、ギミックは皆無、ディテールも貧粗この上ないので、手を入れ甲斐のある、楽しみな製品です。
    ただ、個人的には、旧キットを2個1で限定発売を繰り返すのでは無く、海外製品に負けない新金型で、1/48 を凌駕するディテールで新発売して欲しいところではあります。
    もはや、1/48 の行く末も 艦船模型の 1/500 と同様になるでしょうし、是非!ってところです。
    コクピット内部は、オーバースケールのため、使用しなくなった、リノリウム押さえを、補強梁桁として、使用します。シートベルトは後程、継ぎ目処理後に設置です。
    機体の継ぎ目は、パテ盛り後、乾かないうちに、拭き取り、隙間を埋めます。管類部分はカット開口します。
    エンジンはひらべったいちゃんですが、可能な限り配管を再現してやります。





    最終的には全気筒へスパークプラグをもっていってやり、完成です。
    先程、カットした、銃口、ピート管(正確にはピトー管ですが、私ら、おじさまはピート管と呼ぶ人が多いです。私も(笑))を真鍮管で再現します。
    エンジンを設置して、カウルをかぶせます。





    実はここまでに相当数の工程があるのですが、知人の来客で、撮影が出来ず、ここまできました。
    チッピングは可能な限り実機に近い状態します。ただ、漠然とした部分は推測になっています。あと、プロペラはどうか見えません。ので、ヘリあたりに抑えておきます。
    結局、最後はキャノピーです。
    キャノピーを設置したら、細部のディテールのデカール貼付、レタッチ、ウェザリング、アンテナ線設置で完成です。

完成写真

LAND SCAPE

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horizontal VIEW

 



撮影環境
ミニクリプトン球(電球色)6燈直射による自作撮影ブース
撮影に使用したカメラなどの機材
Nikon D90, Nikon AF-S NIKKOR 24-85mm, Nikon AF-S NIKKOR 18-55mm, Kenko CLOSE-UP Lens f330 52mm, SLIK三脚
撮影時のカメラの設定値
F-18, NOFLASH, ISO100-1400, 露出補正+1.7

製品所在


皇紀弐六七弐年五月壱拾五日軍艦堂工廠 空技廠ニテ完成
売却額 18,000円にてコレクター様に売却

あとがき


最近舟ですら陸軍物でした。(;^^)ヘ..

編集 岵囃子裕二(タヌポンの工廠長)@軍艦堂 トップへ