
概観諸元
分類:航空母艦 クラス:航空母艦
艦番:-
起工:1936年起工 竣工:1939年竣工
型式:蒼龍型>計画変更>単艦型 艦番:1番艦
艦名:飛龍 2代飛龍 初代飛龍は幕末~明治期の運搬船飛龍丸
由来:生物 飛翔する龍に因む。
諸元:基準排水量:17,300トン 満載排水量:トン 公試排水量:20,165トン
全長:227.35m 全幅:22.32m
兵装:
竣工時 |
最終時 |
40口径12.7cm連装高角砲×6 | 40口径12.7cm連装高角砲×6 |
25mm三連装機銃×7 | 25mm三連装機銃×7 |
25mm連装機銃×7 | 25mm連装機銃×7 |
搭載機:常用57機 補機16機
信号符字:Juliett - Quebec - Foxtrot - Alpha
概要
飛龍(ひりゅう)は、日本海軍の航空母艦。
開戦以降、日本海軍の主力空母の1隻として活躍したが、1942年(昭和17年)、ミッドウェー海戦にて沈没した。
同海戦で沈没した4空母のうち当初は被弾を免れ、山口多聞少将の指揮下、米空母「ヨークタウン」を撃破した。
昭和9年度海軍軍備補充計画(通称・マル2計画)で建造された中型空母である。
当初は「蒼龍」型の2番艦として計画・建造されていた。だが軍縮条約破棄により設計の自由度が増したため、飛行甲板幅を1m広げ艦幅を若干太くし、さらに第四艦隊事件による船体構造溶接化の破棄、凌波性向上のため艦首1m・艦尾40cm乾舷を高めるなど「蒼龍」とは違う図面で建造された空母となった。
文献によっては、蒼龍と同型艦にするか、独立させるかで意見が分かれる。「蒼龍」と同様、少なめに見積もった数値(基準排水量1万トン、全長209.84m、最大幅20.84m)を諸外国に通告している。
命名式にはトルコ士官学校生徒も立ち会った。
外見上最も目立つ点は左舷中央に島型艦橋を配置している点で、左舷に艦橋を配置しているのは世界の空母の中でも珍しく、日本では改装後の「赤城」とこの「飛龍」の2隻のみである。
この左舷への艦橋設置については、1935年(昭和10年)に海軍航空本部長から艦政本部長あての『航空母艦艤装に関する件照会』で定められた「赤城の大改装および、飛龍以後の新造艦からはできるかぎり艦橋と煙突はそれぞれ両舷に分けて設置し、煙突は艦後方、艦橋は艦の中央付近に設置する」に従っている。
実際には「赤城」と「飛龍」で左舷艦橋を設置したところ、煤煙が艦橋に流れ込む、気流が乱れて着艦しづらくなる等のデメリットが生じた。そのため次級の翔鶴型航空母艦は、建造中に艦橋を右舷前方付近、煙突をその後方に移動するという設計変更を行い、飛龍型に若干の設計変更を加えた雲龍型航空母艦でも、艦橋は右舷に移動している。
以後、日本海軍は「飛龍・蒼龍」を日本空母の原型として設計、建造を行った。本級を拡大させた翔鶴型や、本艦の線図を流用した雲龍型航空母艦が有名である。
飛行甲板後端には、上空からの識別のために片仮名で「ヒ」の文字が記入されていた時期もある。
1939年7月5日、完成し、艦隊編入を待つ飛龍
1936年(昭和11年)7月8日、横須賀海軍工廠にて起工。1937年(昭和12年)11月15日に進水し、1939年(昭和14年)7月5日に伏見宮博恭王臨席の元で竣工する。
1940年(昭和15年)4月、「飛龍」は第一航空戦隊と共に中国福建省を爆撃した。
9月17日、呉を出港し日本軍のフランス領インドシナに対する北部仏印進駐を支援した。
1941年(昭和16年)2月3日、ベトナムとタイとの国境紛争を調停すべく南方へ進出。その後、中国沿岸封鎖作戦に参加し、艦載機が沿岸部を攻撃している。
7月10日、日本を出港し、インドシナに対する第二次仏印進駐を支援する。この期間中、艦載機が福建省南平を爆撃した。
1941年(昭和16年)11月26日、「飛龍」と「蒼龍」は第一航空艦隊第二航空戦隊に所属し、第一航空戦隊(空母:赤城、加賀)、第五航空戦隊(空母:翔鶴、瑞鶴)と共に日本を出撃した。この時点での第二航空戦隊旗艦は「蒼龍」である。
12月8日、真珠湾攻撃に参加し、米軍太平洋艦隊の潰滅に貢献した。
1942年(昭和17年)1月12日、「飛龍」は日本を出撃し、23日・24日にはモルッカ諸島アンボン島州都アンボンを空襲した。
2月19日にポート・ダーウィン空襲に「飛龍」から計44機(零戦9、艦爆17、艦攻18)が参加。
2月25日、ジャワ島攻略を支援すべくインド洋へ進出する。任務はジャワから逃走する連合軍艦隊の補足撃滅であった。だがスラバヤ沖海戦の結果、米英蘭連合軍艦隊が全滅したため、南雲機動部隊の出番はなかった。
3月1日、戦艦「比叡」、重巡洋艦「筑摩」と共に「飛龍」航空隊が給油艦「ペコス」(USS Pecos, AO–6)、駆逐艦「エドサル 」(USS Edsall, DD-219)を攻撃し、撃沈する。
3月5日、ジャワ島南岸の都市チラチャップ港を空襲して停泊中の船舶を撃沈した。3月7日の索敵攻撃では、オランダ商船を「蒼龍」攻撃隊と共同して撃沈した。3月11日、スターリング湾に戻る。
3月26日、南雲機動部隊はスターリング湾を出港し、作戦目標も明確でないままインド洋作戦に参加する。
4月9日には、セイロン島ツマンコリー軍港を空襲する。続いてセイロン沖海戦に参加し、飛龍攻撃隊(零戦3、艦爆18)は空母「ハーミーズ」、オーストラリア駆逐艦「ヴァンパイア」、コルベット「ホリホック」、タンカー2隻を共同撃沈した。
1942年5月27日、空母「飛龍」は南雲忠一中将指揮のもと、第一航空艦隊(南雲機動部隊)第二航空戦隊旗艦としてミッドウェー海戦に参加すべく日本を出撃した。
「飛龍」は米軍機動部隊の雷撃隊の攻撃を受け、その回避に追われたため、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」からは離れた位置にいた。南雲機動部隊空母4隻中1隻だけ爆撃を免れた「飛龍」は、山口多聞少将指揮下、反撃を開始する。アメリカ海軍空母「ヨークタウン」を攻撃する。魚雷3本の命中を記録(米軍記録2本)して航行不能とした。そのかわり、友永隊長を含む艦攻5、零戦3(不時着1)が撃墜される。
「飛龍」上空の直衛戦闘でも零戦5機(不時着1)を失い、被弾した三空母から零戦や艦攻を受け入れたものの、「飛龍」の航空戦力は消耗しきっていた。
「飛龍」は空母「エンタープライズ」、「ヨークタウン」(艦載機のみエンタープライズに移動)のSBDドーントレス急降下爆撃機24機の集中攻撃を受け、1,000ポンド爆弾4発を被弾する。
加来艦長は消火に努力していたが、機関科全滅の報告(誤報)を受けて「飛龍」の放棄を決定し、総員退去命令が出る。
生存者は第十駆逐隊の駆逐艦「巻雲」、「風雲」に移り、「巻雲」の発射した魚雷により処分。
機関科脱出者達は15日間漂流したのち、米軍に救助された。
「飛龍」は海戦参加の日本空母中、最も搭載機搭乗員の戦死者が多かった艦となった。
慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。
1999年10月29日、アメリカの深海調査会社ノーティコスが、ミッドウェー沖の海底4,800m付近で、本艦を発見したという。
Wikiより GFDL上の著作権表示
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補足情報:
補足情報はありません。
同型艦:
- この艦に同型艦はありません。
考証
内容はまだ掲載されておりません。
バリエーション
- フジミ製キット 1942 ミッドウェー海戦
使用部品
- フジミ製キット 特-56
- フジミ製飛龍用エッチングパーツ
- フジミ製飛龍用木甲板シート&エッチングセット(エッチングのみ使用)
- 海魂製舷外電路 H013
- アドラーズネスト 戦艦用ボラード
- ファインモールド製 アンカー&菊花紋章
- ジョーワールド製 フェアリーダー
- KAモデル水密ドア
- ベテランモデル製パラベーン (揚荷用ダビットのみパラベーンは菊と刀製使用)
- 各種金属部品 真鍮線 0.2mm 0.3mm 銅線
- 各種プラパーツ プラ棒 0.6mm径
- 海魂製 絡車
- ファインモールド製 連装三連装機銃
- 海魂製 火器管制エッチングセット
- 海魂製シールド付き25mm三連装機銃
- 菊と刀製レジンウィンチパラベーン
- ピットロード製艦船装備セット (94式高射装置のみ)
- その他各社エッチング、レジンパーツなど
製品所在
皇紀弐六七弐年(2012年)拾月弐拾参日軍艦堂第六渠ニテ起工
同年拾壱月六日竣工
あとがき