概観諸元
分類:戦艦 クラス:戦艦
艦番:-
起工:1936年起工 竣工:1940年竣工
型式:ビスマルク級 艦番:1番艦
艦名:ビスマルク 2代ビスマルク 初代:コルベット艦ビスマクル級ビスマルク
由来:人名 鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクに因む。
諸元:基準排水量:41,700トン 常備排水量:45,950トン 満載排水量:50,300トン
全長:241.55m 全幅:36m
兵装:
竣工時 |
最終時 |
38.1cm(47口径)連装砲×4 | 38.1cm(47口径)連装砲×4 |
15cm(55口径)連装砲×6 | 15cm(55口径)連装砲×6 |
10.5cm(65口径)連装高角砲×8 | 10.5cm(65口径)連装高角砲×8 |
37mm(83口径)連装機関砲×8 | 37mm(83口径)連装機関砲×8 |
20mm(65口径)4連装機関砲×2 | 20mm(65口径)4連装機関砲×2 |
20mm(65口径)単装機関砲×12 | 20mm(65口径)単装機関砲×12 |
搭載機:アラドAr196A-3水上偵察機 4機
信号符字:Aipha - Alpha - Alpha - Alpha なし、または調査中 ご存じの方はこちらから情報をお寄せ下さい。
概要
ビスマルク (Bismarck)は、第二次世界大戦中のドイツ海軍最大の戦艦。
ビスマルク級戦艦のネームシップ。艦名はドイツ統一の立役者の鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクにちなんで付けられた。
設計は1934年に始まり、排水量はイギリスとの合意であった35,000トンを越え42,600トンまで増加した。
1936年7月1日にハンブルクのブローム・ウント・フォス社で起工、1939年2月14日に進水、1940年8月に就役した。
ドイツの科学力や知識の粋を集めた戦艦だったため、沈没によってドイツ海軍は多大な損害を受けた。
排水量だけを見れば当時世界最大級の戦艦であったが、対空射撃管制や装甲板の防御配置、乗員の練度などに問題も多かった。特に同級は、設計の段階で考慮されるべき遠距離砲戦に対応する防御を、甲板構造物の重量面、その他の問題から、結果として軽視せざるを得なかった。これは、第一次世界大戦当時のバイエルン級戦艦の設計を引き継いでいた為に起こったとされる。
搭載砲の大口径化は、遠距離砲戦の頻度を上げる事となったが、同時に砲弾が垂直方向から着弾する可能性を押し上げ、そのため、結果としてビスマルクは近距離砲撃に比べ、遠距離砲撃には脆弱な面を持つ事となった。
バイエルン級戦艦の設計を流用した理由として考えられるのは、海軍の増強が急務であった事と、ドイツ戦艦の活動海域は主として視界の悪いバルト海における対英戦を想定していたこと、近距離砲戦への警戒から可能な限りの喫水線側の防御力を考慮したことである。しかし、大口径化が進んだ背景において、甲板構造物、特に砲塔上面の防御力の重要性は増していた。この近距離砲戦での防御を重視する思想は、既に第一次大戦のユトランド沖海戦で、イギリス海軍の脆弱さの根源として否定されている。つまり、ドイツ海軍は当の第一次大戦におけるユトランド沖海戦の戦訓を次世代の戦艦設計に生かすことが出来なかった。しかし、連合国、特にイギリスの同級に対する警戒心は強く、抑止力としては有効であった。
ライン演習
イギリスの補給線を断つライン演習作戦は、当初ビスマルク、重巡洋艦プリンツ・オイゲンに加え、巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウが参加し、戦艦1 巡洋戦艦2 重巡洋艦1の強力な水上艦隊をもって行う予定であった。
しかし、作戦前にシャルンホルストは機関故障の修理でブレストに留まり、またグナイゼナウはブレストでイギリス軍雷撃機の攻撃を受け推進軸が損傷、修理のため参加が不可能となってしまった(この修理には6ヶ月を要したという) 。そのため、ビスマルク、プリンツ・オイゲンの2隻で作戦を行うこととなった。
デンマーク海峡海戦
1941年5月24日早朝、ビスマルクが距離約17,000mで放った第5斉射がフッドに命中。弾薬庫が爆発し、艦は真っ二つになり轟沈した。乗組員1415名中、生存者は僅か3名だった。
その後、プリンス・オブ・ウェールズは、司令塔が破壊され、艦長外1名を除く司令塔要員全員が死傷したほか、喫水線下にたて続けにビスマルクの主砲弾3発が命中して浸水したために戦闘海域を退避した。 このときまでに、ビスマルクはプリンス・オブ・ウェールズの主砲弾3発の命中を受け、2,000トンの海水が流入していた。
ビスマルク追撃戦
フッド沈没の一報にイギリス海軍はビスマルクに対する復讐心を燃やし、動かせる大型艦のほぼすべてを注ぎ込んでの迎撃を計画、H部隊の巡洋戦艦レナウンと空母アーク・ロイヤルを呼び寄せる一方で、先に撤退したプリンス・オブ・ウェールズを重巡洋艦ノーフォーク、サフォークと組ませて触接を維持させた。
一方、ビスマルクは、僚艦プリンツ・オイゲンと別れ、別のルートでフランスに向かうこととなった。
ビール中尉機(機体番号:2P)が発射した魚雷がビスマルク左舷中央部に命中。少量の浸水が発生する。
フォーセット大尉機(機体番号:2B)かその僚機であるパッティスン中尉機(機体番号:2A)のいずれかが発射したと思われる魚雷がビスマルク右舷後部に命中。魚雷命中の衝撃により、中央のスクリューが跳ね上がって船体に食い込んだ為、操舵装置が損傷し、舵が取舵12度で固定されてしまった。また、艦底に生じた破口から大量の浸水が始まり、推進機による操舵を行う関係から速度を7ノット以上出せなくなり、航行に致命的な支障を来たすこととなった。
5月27日朝、戦艦キング・ジョージ5世およびロドニー、重巡洋艦ノーフォークおよびドーセットシャーとの88分間の戦闘でビスマルクは約400発の砲弾と3本の魚雷を受け4つの主砲塔のうち3基が破壊された。火薬庫の温度上昇防止のための注水処置で反撃不能となったビスマルクは午前10時40分に沈没した。
沈没原因をはドイツ側は自沈としているが、英国側は砲雷撃としている。
ドーセットシャーおよび駆逐艦は漂流中の乗組員の救助に当たったが、Uボートの接近と思われる聴音(実際には当時その海域には存在しなかった)により途中で救助を断念した。
結局2,206名の乗組員のうち救助されたのは115名であった。
ビスマルクは、イギリス艦隊が近距離砲戦に終始したため、損害は上部構造物に集中し、水線下はダメージを幸運にも受けなかった。
元設計において想定した戦闘距離と図らずも(あるいは「的確に」)一致した結果で、脆弱な水平装甲を大角度からの徹甲弾が直撃するということはなかった為、期待通りの防御力を発揮し驚異的な不沈性を見せた。
ビスマルクの船体は1989年6月8日に発見された。
発見者はタイタニック号の探査も行った海洋考古学者のロバート・バラードである。ビスマルクはフランスのブレスト西方650キロメートル、4,700メートルの海底に沈んでいる。
ビスマルクが到達した海底は傾斜のある斜面で、海底に接触したあと、船体は海底を滑って落ちた形跡が残っており、探査機はその跡をたどっていきビスマルクの船体を発見した。船体は正しい向きで海底に沈んでいるが、4つあった主砲砲塔は全て失われていた。
艦橋は船体から脱落して、船体から離れた場所に沈んでいる。 艦体の分析で魚雷のために変形したスクリューシャフトと、スクリューと干渉して動作不能になった舵が確認された。
イギリス軍の砲弾はメインブリッジの装甲艦橋を貫通しているのを始め、上部甲板構造物を広く破壊していたが、意外にも船体舷側の垂直装甲を貫通している砲弾は数箇所に留まっていた。そのためイギリス軍の砲撃は戦闘能力の排除と火災発生には役立ったが、ビスマルクの直接の沈没の原因にはならず、きわめて効率の悪いものであったと判断された。
沈没の原因は乗員による自沈操作といわれるが、自沈操作を行った乗員の手記や証言は残っていない。
イギリス駆逐艦もビスマルクにとどめをさすために近距離から魚雷を発射したが、命中は3本とされている。
沈没艦の探査でも魚雷の命中箇所が発見されたが、確認できたのは艦尾のものを別にすると1箇所のみであった。
ドイツ側の言う自沈か撃沈かの最終的な結論は不明である。バラードはタイタニックの場合に起こった遺品などの盗難を考慮し沈没地点の正確な場所は発表していない。
のちに映画監督ジェームズ・キャメロンがビスマルクの水中撮影をおこない、その映像をもとに番組を制作している。
Wikiより GFDL上の著作権表示
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補足情報:
補足情報はありません。
同型艦:
- テイルピッツ(Tirpitz)1941年竣工(ヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠)トロムソにて空爆、着床転覆
考証
内容はまだ掲載されておりません。
バリエーション
- ドラゴン製キット 1941
使用部品
- ドラゴン製キット (フルハル専用キットのため、加工改造使用)
- フライホーク製 手摺(DKM用)
- 28cm金属砲身
- KAモデル製水密ドア (ドイツ海軍形状酷似品使用)
- 真鍮線 0.5mm 0.3mm 0.2mm
- ファインモールド製 金属メッシュ
製品所在
2012年9月16日軍艦堂第六渠ニテ起工
同年10月3日竣工
あとがき
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