概観諸元

分類:駆逐艦 クラス:1等駆逐艦
起工:1938(昭和13)年起工 竣工:1940(昭和15)年竣工
型式:陽炎型 艦番:8番艦
艦名:雪風 初代雪風
諸元:基準排水量:2,033トン 公試排水量:-,---トン
全長:118.5m 全幅:10.8m

概要

雪風(ゆきかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。陽炎型の8番艦である。太平洋戦争を戦い、当時の艦隊型新鋭駆逐艦であった、朝潮型駆逐艦、陽炎型駆逐艦及びその改良型夕雲型駆逐艦、そして「島風」の計50隻の中で唯一終戦まで生き残った。日本海軍の駆逐艦は、激戦区に投入され非常に損耗率が高かったが、本艦は16回以上の主要な作戦に参加し、戦果を上げつつほとんど無傷で終戦を迎え「奇跡の駆逐艦」と呼ばれた。
雪風は1940年1月20日に佐世保海軍工廠にて竣工。開戦直前には「時津風」「初風」「天津風」とともに第16駆逐隊を組んでおり、雪風は旗艦だった。開戦時の艦長は飛田健二郎中佐。
初陣は1941年12月12日、フィリピンのレガスピに対する上陸支援であった。その後12月24日にはラモン湾上陸支援、1942年1月11日にはメナド攻略作戦の一環であるケマ上陸支援、24日ケンダリー、31日アンボン、2月20日チモール島の各上陸作戦支援に従事。2月27日からは初の海戦となるスラバヤ沖海戦に参加した。その後6月のミッドウェー海戦には攻略部隊の一員として参加し輸送船団の護衛として防空戦にあたるものの、主力空母4隻の喪失により反転。呉に帰還後、艦長は菅間良吉中佐に変わる。その後しばらくは輸送船や故障船回航の護衛、および空母訓練の随伴任務についていた。 10月26日の南太平洋海戦には当初「翔鶴」、「翔鶴」被弾後は「瑞鶴」の直衛艦として参加。海戦後「瑞鶴」を守り抜いた功績により聯合艦隊長官より感状を授与されている。11月13日の第三次ソロモン海戦にも参加したが、至近弾により汽缶に亀裂が入った為、修理のため呉港に引き揚げている。
1943年2月1日より3回におよぶガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加、大成功を収めるものの、その後のラエへの輸送部隊護衛任務では輸送船団の全滅を目の当たりにする(ビスマルク海海戦)。この頃より「強運艦」として日本海軍将兵の間でも有名になっていたようである。約2か月間ソロモン海域で輸送任務に従事した後、「瑞鶴」などの第1航空戦隊護衛として東京湾まで随伴し、6月1日に改装のため呉に入港した。この時の改装では25mm機銃の増設とともに、当時の最新兵器であった逆探が装備されている。実戦での有効性の確認や各種データを取るために、雪風が逆探の先行搭載艦に選ばれたのは「沈没による収集データ喪失の危険性がないから」だと言われている。のちに電探も同様の理由により日本海軍の駆逐艦の中では早い時期に装備された。 改装後再びソロモン海域に戻り、7月12日夜のコロンバンガラ島沖海戦に参加。序盤に旗艦神通が大破(後沈没)したが残りの駆逐艦4隻の2度に亘る雷撃攻撃で、連合国側の軽巡3隻大破、駆逐艦1隻撃沈2隻大破の戦果を上げ、コロンバンガラ島への上陸作戦も成功した。8月6日から9日まで、わずか3日間だけであったが、第八艦隊旗艦を務めている。駆逐艦が艦隊旗艦となるのは極めて珍しい記録である。ソロモン海で魚雷攻撃により損傷した熊野回航の護衛としてトラック島から呉まで随伴し、呉で再び25mm機銃を増設した。その後数ヶ月、輸送任務に就いた空母瑞鳳や運送艦の護衛、およびトラック島付近での哨戒任務に従事した。 12月に呉に帰港し、艦長が寺内正道少佐に交代した。また3度目の改装が行われ、2番砲塔(艦尾側)を撤去して九六式二十五粍高角機銃3連装2基を設置するなど、九六式二十五粍高角機銃(3連装、単装)がハリネズミのように増設され、対空装備の強化が図られた。また電探(レーダー)は前部マストに対水上用22号、後部マストに対空用13号を装備した。この頃第16駆逐隊は4隻中2隻が沈没、1隻が大破修理中のため解隊し、雪風は「浦風」「磯風」「浜風」「谷風」からなる第17駆逐隊の5番艦に編入された。 1944年5月、聯合艦隊主力はタウイタウイ泊地に進出。雪風は同地で、対潜哨戒任務にあたっていたが5月18日、触礁によりスクリューを破損する。応急修理は済ませたが全速力を出せない状態で、翌月のマリアナ沖海戦には補給部隊の護衛として参加した。7月に因島ドッグでスクリュー交換する。レイテ沖海戦では「金剛」を旗艦とする第2部隊に所属で参加。海戦後に17駆逐隊の僚艦と、「大和」「長門」「金剛」の護衛として呉まで随行する(「金剛」「浦風」は台湾沖で米潜水艦により撃沈される)。そのまま17駆の3隻は「長門」を護衛して横須賀港に向かった。折り返しで新造航空母艦「信濃」を呉まで護衛する任務につくが、11月29日潮岬沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて「信濃」は沈没した。 1945年3月19日の呉軍港空襲の際には、多くの艦船が被害を受けた中、軍港内を走り回って攻撃を回避しながら敵機を2機撃墜した。 4月1日、戦艦「大和」の沖縄水上特攻作戦に参加し呉出港。7日に航空機約400機の猛攻を受け艦隊10隻中4隻のみが帰還、無傷だったのは「初霜」と「雪風」の2隻のみだった(帰港後、食料庫にロケット弾が直撃していたことが判明。しかし信管が作動せず不発だった)。雪風は大和の航行不能になった僚艦「磯風」の生存者を収容し、磯風を砲撃で処分した。その後「初霜」とともに舞鶴港に回航。6月になると舞鶴も空襲に襲われるようになり宮津湾に移動してそこで終戦を迎えた。 雪風の武名は海軍内で有名であり、各艦隊とも雪風が作戦に共同するときは士気が上がったという。同様の幸運艦には呉の雪風 佐世保の時雨と謳われた「時雨」(スリガオ海峡海戦での西村艦隊唯一の生存艦、昭和20年1月戦没)や「瑞鶴」(エンガノ岬沖海戦にて戦没)もあったが終戦まで幸運が続いた例は希有であった。一方で常に雪風の損害が軽微だったのに対し僚艦は大破・沈没して多数の戦死者を出すことが多かったため、雪風を「死神」と呼んで同航することを嫌がる他艦の乗組員も多かったという話も残っている。
敗戦後は武装を全て外して、復員輸送艦として活躍。雪風の輸送によって祖国の土を踏んだ将兵は1万3千人以上にもなるという。その中には後に漫画家として有名となる水木しげるもいた。彼の作品「駆逐艦魂」に出て来る駆逐艦「旋風」は、あきらかに寺内艦長時代の雪風である。 『雪風』の武勲は戦後も高く評価され、戦後国産護衛艦「はるかぜ型護衛艦」の2番艦は「ゆきかぜ」と命名されるなど、海上自衛隊でも伝承されている。(「ゆき」が艦名に拝領される艦は幸運艦との験担ぎが生まれ、海上自衛隊でもっとも量産された艦は「はつゆき型護衛艦」である。)
復員輸送の任務を終え、戦時賠償艦として連合国へ引き渡される事となったが、乗組員たちは自棄になって手を抜く事をせず、最後まで入念に整備し、連合国側から「敗戦国の軍艦でもかくも見事に整備された艦を見た事が無い。まさに驚異である」と感嘆され、乗組員は米海軍から感状を授与されたという。 1947年7月6日、賠償として中華民国に引き渡された雪風は「丹陽(タンヤン)」(DD-12)と名を改め、駆逐艦ながら中華民国艦隊旗艦として迎えられた。「丹陽」とは中国江蘇省の小都市名であるとともに、字義通り「赤い太陽」の意味でもあり、大日本帝国海軍由来の艦艇であることを堂々と示唆していることをみても、中華民国海軍が相応の敬意を払って自軍に受け入れたことは想像に難くない(この事は司馬遼太郎のエッセイにも記述されている。台湾停泊時の雪風乗員はモラルが高く台湾の方たちに友好的であったため、台湾国民に「雪風」ファンが多く、台湾回航時の「丹陽」を見て台湾国民は喜んだと言う内容。)。 国共内戦の国民党軍の敗北に伴い、その他の艦艇とともに台湾に逃れ、引き続き中華民国海軍所属として第一線で活躍した。料羅湾海戦など実戦にも参加したとみられる。1964年12月に行われた観艦式では雄姿を見せたが、機関の老朽化によって1966年11月16日付で除籍された。 旧乗員が中心となって結成された「雪風保存会」などの活動もあり、「最後の日本海軍艦艇」の日本への返還(正当な手続きで中華民国海軍艦艇となったので「返還」ではなく「譲渡」が正式な表現)が希望され、実現一歩手前までこぎつけたとも言われるが、台風による浸水で損傷した為に不可能になり、1970年に解体された。1971年12月、中華民国政府より舵輪と錨のみが返還され、舵輪は江田島の旧海軍兵学校・教育参考館に、錨はその庭に展示されている。 なお、雪風は引き渡し時には武装撤去の状態であったが、再武装化に対し、中国国民党軍は接収した旧日本軍の台湾などに残った火器による、九六式二十五粍高角機銃から始め、後部の2番、3番砲塔を九八式10センチ高角砲に、前部の1番砲塔は八九式12.7センチ連装高角砲 に独自な形状の砲塔を付いて装備している。その後弾薬補給の問題から米国式の砲に換えられている。米国式に換装後の武装は、オープントップの38口径5インチ単装両用砲3基(本来の主砲砲塔の位置に搭載)、オープントップの50口径7.6センチ単装両用砲2基(本来の魚雷発射管の位置に搭載)、ボフォース40ミリ連装機銃4基8門(初期)ボフォース40ミリ単装機銃10基10門(後期)、爆雷投下軌条となっている。

Wikiより抜粋

同型艦:

使用部品

製作工程

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完成写真

HULL SCAPE

ZOOM UP

 



撮影環境
ミニクリプトン球(電球色)4燈直射による自作撮影ブース
撮影に使用したカメラなどの機材
Nikon D40X, Nikon AF-S NIKKOR 24-85mm, Nikon AF-S NIKKOR 18-55mm, Kenko CLOSE-UP Lens f330 52mm, SLIK三脚
撮影時のカメラの設定値
F-18, NOFLASH, ISO100-1400, 露出補正+1.7

製品所在

2隻同時製作
艦番1: 
艦番2: 

展示箇所はこちら

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あとがき

 

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