概観諸元

分類:軽巡洋艦 クラス:二等巡洋艦
艦番:136号艦
起工:1941年起工 竣工:1943年竣工
型式:大淀型 艦番:1番艦
艦名:大淀 初代大淀
由来:地名 宮崎県を流れる大淀川に因む。関西の淀川では無い。
諸元:基準排水量:8,146トン 満載排水量:9,980トン
全長:192m 全幅:16.6m
兵装:

竣工時
戦没時
三年式 15.5cm 三連装砲×2 三年式 15.5cm 三連装砲×2
九八年式 10cm 連装高角砲×4 九八年式 10cm 連装高角砲×4
25mm三連装機銃×6 25mm三連装機銃×18
- 25mm単装機銃×16


搭載機:水上偵察機6機 改装後は2機
信号符字:調査中 ご存じの方は こちらからお願いいたします。
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概要

大淀(おおよど)は日本海軍の軽巡洋艦。
艦名は宮崎県下の最大河川である大淀川に由来する。
大日本帝国海軍最後の連合艦隊旗艦でもある。
日本海軍の書類上の分類では乙巡(軽巡)ではなく丙巡(偵察巡洋艦)である。
太平洋戦争開戦前、海軍の対米戦計画では潜水艦部隊による敵主力艦隊の漸減邀撃が予定されていた。だが、広大な太平洋上を潜水艦単独で敵艦隊と接触交戦するのは困難であった。そこで潜水艦部隊の旗艦として新型の高速水上偵察機を搭載し、これにより最前線で強行偵察を行うことを目的とした偵察巡洋艦の建造が計画された。
航空搭載能力が重視されたため、艦後部には主砲を装備せず、高速水上偵察機用の格納庫と大型の射出機を装備している(新造時)。
計画では「大淀」、「仁淀」の二隻が建造される予定であったが太平洋戦争勃発のため「仁淀」は建造中止となる。
1945年呉に帰投後、作戦行動する燃料もなく、3月1日に「大淀」は練習艦に格下げされた。
乗組員の間では戦艦「大和」の沖縄水上特攻に参加することも噂されていたが、その機会はなかった。
3月19日、呉を米軍機動部隊艦載機が襲撃。「大淀」は艦中央部右舷への至近弾により艦底を破損し、浸水して右舷に傾斜した。
ドックに入って舷側の穴を塞ぐなどの応急修理は行われたが、破損した機関部の補修など抜本的な修理は実施されず、対空火器も一部破損したままであった。
その後江田島湾に曳航されて迷彩塗装やカモフラージュの偽装が施され、浮き砲台となった。すぐ近くには同じく曳航されて浮き砲台となった重巡洋艦「利根」の姿があった。
7月28日、米艦載機の空襲(呉軍港空襲)を受けた。午前10時ごろ艦橋近くの被弾によって大規模な浸水が発生し右に傾斜した。艦長は傾斜を防ぐためにキングストン弁の開放を指示したが、次々に命中する爆弾による浸水のために転覆を防ぐことは出来ず、12時ごろ「大淀」は右に横転した。現場は浅い海岸だったので、船体の一部のみ海面に出した状態で完全に船体は横倒しとなり、艦橋も左に大きく根元から歪んだ。
同年11月除籍。戦後、アメリカ軍による被害調査が行われた。至近距離で炸裂した爆弾の水圧によって広範囲にわたって艦底が陥没している様子や、空中発射のロケット弾によって0.5インチの鋼板が貫通している様子などが写真に残されている。
1947年(昭和22年)の引き上げと解体に際しては、着底現場で解体するのではなく、転覆を復元してドックまで曳航した。これは元海軍技術者を含むサルベージ業者が、1隻くらいは切り刻んだりせずできるだけ元の姿で連れ帰ってやりたいという気持ちを具現化したものであった。

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補足情報:

軽巡洋艦時代の最上を除き、日本海軍最大の軽巡洋艦であった。(管理者記)
全長は、重巡洋艦古鷹、青葉よりも長い。(管理者記)
軽巡洋艦にして、魚雷装備のない軽巡洋艦であった。(管理者記)

同型艦:

考証

バリエーション

使用部品

1943年

竣工時呉式二式一号一〇型大型射出機搭載字時


完成写真

HULL SCAPE

ZOOM UP

WATERLINE VIEW

 

製品所在


皇紀弐六七弐(西暦2012)年七月起工
同年同月竣工

あとがき


重巡洋艦青葉よりデカイ軽巡洋艦大淀、完成です。
実はこの艦は阿賀野型と大同小異です。

編集 岵囃子裕二(タヌポンの工廠長)@軍艦堂 トップへ